欲望、目的、自由意思、計画、などによって人間の行動が決められているという理論モデルは、私たち人間がそう思い込んでいるだけでしょう。動物にも人間にも欲望というものは存在しない、というほうが簡単ではないでしょうか。
私たちは、身体の自動的な仕組みにしたがっていつのまにか身体が動くことに気づいたとき、自分の内部の衝動が身体を動かしたと感じる。その衝動がどこから来たか、本人には分かりません。なぜか身体が動いていく。ふつう、それがあたりまえです。それがなぜか、と考えるときだけ、それを衝動と感じる。それがどこから来るか考えるとき、それを自分の内部に隠されている欲望が出てきた、と感じるのです。
ある少女が柿の木に登って柿をもぎ取って食べているとします。(拙稿の見解によれば)彼女は赤い柿を見ているうちに、過去に習熟した運動を思い出して身体がそれを繰り返したわけです。空腹なとき赤い柿を見たらもぎ取って食べる、という一連の運動が、繰り返すべきものとしてその少女の脳に登録されていたからです。
しかし、ふつう人間が人間の行動を見るときは、こういう言い方にはなりません。「彼女は何かを食べたい、という欲望を感じて、それを満たすために柿を食べることを思いつき、その目的を満たすために木に登ることを計画して、その目的のために手足を動かして、木登りを実行した」となります。人間の脳は、こういう考え方のほうが理解しやすいし、記憶しやすいのです。これは、運動する人間を見て「欲望→計画→行動」というモデルが脳に呼び出されるからです。
リンゴが枝から離れるのを見て、ニュートンが「あ、このリンゴはこれから下に向かって加速していくだろうな」と感じたのと同じです。リンゴは低いほうへ行きたいという欲望を持ったから地面に向かった。人間の脳はそう感じるようにできています。しかしこれは一種の錯覚です。ふつう、人間はこれが錯覚だとは気づきません。リンゴが枝から離れれば、下に向かって加速しながら移動するのは、あたりまえですから、なんとも思いませんね。ニュートンだけが「あれ、まてよ。リンゴは何かの作用を受けて加速しているとは考えられないか?」と思ったのでしょう。
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