哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ニュートンとリンゴ

2007年08月29日 | x欲望はなぜあるのか

Almatademasappho 欲望、目的、自由意思、計画、などによって人間の行動が決められているという理論モデルは、私たち人間がそう思い込んでいるだけでしょう。動物にも人間にも欲望というものは存在しない、というほうが簡単ではないでしょうか。

私たちは、身体の自動的な仕組みにしたがっていつのまにか身体が動くことに気づいたとき、自分の内部の衝動が身体を動かしたと感じる。その衝動がどこから来たか、本人には分かりません。なぜか身体が動いていく。ふつう、それがあたりまえです。それがなぜか、と考えるときだけ、それを衝動と感じる。それがどこから来るか考えるとき、それを自分の内部に隠されている欲望が出てきた、と感じるのです。

  

ある少女が柿の木に登って柿をもぎ取って食べているとします。(拙稿の見解によれば)彼女は赤い柿を見ているうちに、過去に習熟した運動を思い出して身体がそれを繰り返したわけです。空腹なとき赤い柿を見たらもぎ取って食べる、という一連の運動が、繰り返すべきものとしてその少女の脳に登録されていたからです。

 しかし、ふつう人間が人間の行動を見るときは、こういう言い方にはなりません。「彼女は何かを食べたい、という欲望を感じて、それを満たすために柿を食べることを思いつき、その目的を満たすために木に登ることを計画して、その目的のために手足を動かして、木登りを実行した」となります。人間の脳は、こういう考え方のほうが理解しやすいし、記憶しやすいのです。これは、運動する人間を見て「欲望→計画→行動」というモデルが脳に呼び出されるからです。

 リンゴが枝から離れるのを見て、ニュートンが「あ、このリンゴはこれから下に向かって加速していくだろうな」と感じたのと同じです。リンゴは低いほうへ行きたいという欲望を持ったから地面に向かった。人間の脳はそう感じるようにできています。しかしこれは一種の錯覚です。ふつう、人間はこれが錯覚だとは気づきません。リンゴが枝から離れれば、下に向かって加速しながら移動するのは、あたりまえですから、なんとも思いませんね。ニュートンだけが「あれ、まてよ。リンゴは何かの作用を受けて加速しているとは考えられないか?」と思ったのでしょう。

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拝読ブログ:イギリス発展の時代 第2段階

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言語「XはYをする」

2007年08月28日 | x欲望はなぜあるのか

人間の言葉では、「A君はレストランに行く」という形のセンテンスで、人の行動を言い表す。自分の行動を言い表すときにも、「私はレストランに行く」と言う。「A君」が「私」に置き換わっただけで(動詞が人称変化する言語もあるが)構造は同じ形式です。人間の言葉は基本的に、「XがYをする」という形です。Xは主語といわれますが、要するに「行為をするもの」です。Y(Yをする)は動詞といわれ行為することです。どこの国の言葉でも,動詞があって、それが言語表現の中心になっています。自然言語がこういう構造をしているということは、人間の脳が世界をこういうふうに捉えるようにできている、ということでしょう。

私たちが言葉を話す場合、まず話題になるものXに注目して、Xは「何かをする」と考え、「XはYをする」という形で言う。つまり、主語になるようなものXは、「Yをしたくて、Yをする」とみなすのです。XはYをしたいという欲望あるいは意思を持ってYをする。人間は世界の中にあるすべてのものたち、認識対象、をこう捉えているわけです。

人間やそれ以外のもろもろのものが欲望や意思によって行動する、という考え方は、(拙稿の見解では)こういう自然言語の形に引っ張られて作られています。そもそも、行動とか、行為とかいう語は、ある主体があって、それが欲望や意思をもって身体を動かす、という図式を前提にして使われる言葉です。それが学問として、哲学で理論化され、「行為」と「行為者」などと呼ばれ、法律、文学、心理学にも使われ、ふつうの人々の常識になっている。人間が仲間の人間の行動を解釈するときに使うと便利な重要な錯覚のひとつです。

でも、こういうものの見方は、物質の法則からは導けません。物質は物質の法則だけで動いている。「Xという物質はYをしたくてYをする」と言う記述は、科学をいくら研究しても導けない。それなのに、私たち人間は、「XはYをする」という記述しかできない言語を使って毎日、暮らしているのです。厳密な記述を求める物理学などでは、しかたないので、自然言語の使用はやめ、数学的に定義された特殊な言葉使いと方程式と数値を使って、物質世界を記述しています。

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拝読ブログ:ア・プリオリ

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「Aが起こるとBが起こる」

2007年08月26日 | x欲望はなぜあるのか

まあ、人間も、くしゃみをしてから、ああ寒い、暖まりたい、といつのまにか身体が動いていくことを、衝動と感じるわけです。いつのまにか身体を縮め震える運動をしてしまってから、自分でその身体の震える運動を感じて、「ああ寒い、暖まりたい」と人間は思ったりする。それから、事後的に「あの時、私は寒さを感じて、くしゃみをしたくなり、震えたくなり、暖まりたいという欲望を持った」という記憶を作るわけです。

欲望を軸にして人間の行動を記述していく、という小説に使われるような記述方法は、もともとは他人の行動を予想するために発達した脳の機能でしょう。「欲望」というものを持ってそれを実現していく、という人間の理論モデルは分かりやすい。「Aが起こるとBが起こる」という形で、人間は経験を学習し、記憶していく。このモデルを使って他人の行動を記憶して、その後の行動を予想すると役に立つ。「あの人はこうしたいと欲望してこうしたのだ。だから今度は、こうしたいと欲望してこうするはずだ」という形で他人の行動を記憶し、予想する。これを自分自身の行動の理解にも応用すると、自分の「欲望」という概念ができあがるわけです。

拝読ブログ:寒い~~

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自分の行動を記憶

2007年08月25日 | x欲望はなぜあるのか

Almatademap 食欲の場合は、視床‐辺縁系神経機構が、消化管などの生成ホルモンの増加や、血糖値の低下などを感知して自律神経を活性化させ、それによって胃液と唾液が分泌されて腸がグーと鳴る。その感覚はカレーライスの味を思い出させる。その連想はカレーライスを食べるいつものレストランに入ることを思い出させる。そうすると、さらに唾液が出てきて、カレーを口にかき込みたくなります。その仮想運動が足をレストランに向けるわけです。そういう衝動を感じながら人間はレストランに向かう。カレーが匂っているような錯覚を感じる。

こうして人間は、カレーを食べにレストランに向かっている自分の衝動を感じる。自分はカレーを目的として今歩いているのだ、と思っています。それでレストラン街の案内板を見たりして、カレーを供する店に行きつく。一方、ライオンはシマウマの群れがいそうな草原に向かうとき、シマウマが自分の歩行運動の目的だとは感じていないでしょう。なんとなく、気持ちが向かう方向に歩いているだけです。シマウマの糞の匂いなどに、心が躍ってくるでしょう。それで運良くシマウマの群を目撃すると、忍び足に切り替えるわけです。それを、はっきりした目的意識を持ってしているかどうか、自分の行動をしっかり記憶として保存しているかどうか、そこが、人間と他の動物が違うところです。

拝読ブログ:やっぱり夏はカレーっしょ(*´`*)

拝読ブログ:P.S カレーの時ってカレーかご飯かどっちかが先無くなるよね。。

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動物に欲望はない

2007年08月24日 | x欲望はなぜあるのか

動物は、何かしたいという欲望に目覚めた結果、それをするのではない。動物は、ロボットと同じように欲望などというものは持っていない。欲望のような何かを持っていなくても、匂いやフェロモンや、体内のホルモンの濃度などの物質的な働きで神経回路が駆動されて自動的に連鎖運動が実行されてしまう。

ライオンは「あのシマウマを殺して食料にしたい」と思って追いかけるわけではありません。逃げるシマウマが見えたとたんに反射的に身体が躍動してそれを追って走っている。シマウマのほうも「生き延びたい」と思って逃げているのではない。ライオンが近づいてくるのが見えると、反射的に全力疾走するような神経系になっているだけです。私たち人間も根本のところは同じです。そうでなくては、数十万年もの間、上手に生き残ることはできません。

ただ、人間は、ある感覚を受けると、自分の身体が動いていって、ある運動をしてしまうことを感じて「自分はその感覚を感じて、そうしたいという衝動を感じた」と思い込み、その感覚と運動の衝動を組にして記憶する仕組みを持っている。

蚊に刺された皮膚が痒いのを感じて,「ああ、痒い」と思い、かきむしりながら「かきむしりたい衝動を感じた」というふうに記憶するわけです。犬も蚊に刺されたところをかきますが、かきたいという自分の衝動とか欲望がある、とは思わないでしょう。犬は「痒い」とか「かきたい」という言葉を思い浮かべることもなく、ただ、単に、痒いところをかくだけです。人間も脳の奥のところでは、それと同じ神経活動をしているはずです。ただ、脳の別のところでは、それと同時に、「ああ、痒い」と思い、「かきむしりたい衝動を感じた」という記憶を作って保存する仕組みを持っています。

拝読ブログ:ライオンとシマウマ

拝読ブログ: 

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