現実世界のありさまは(拙稿の見解では)、身体運動に伴って現れる。あるリンゴがとても赤いという現実は、「このリンゴはとても赤い」と発声するという身体反応にともなって、私たちの間に立ち現われてくる。これは、(拙稿の見解では)私たちの身体が、仲間の視座で見た物事に反応して動くようにできているからです。私の身体のこの運動反応によって、A君の心の存在感もA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感も、そこから立ち現われてくる。
A君の心の存在感とA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感。それぞれがはっきりと存在すると感じとることで、私はA君と同じ現実世界を共有し、A君と話が通じていく。こういうことを繰り返すことで、私はA君と仲良く付き合う気持ちになっていく。私の中でA君は、間違いなく同じ人間どうしであり、仲間だということになっていく。こうして私はA君と、最後には緊密に協力していく間柄になる。逆に言えば(拙稿の見解では)、私たちの身体はこうして、私がA君と仲良く仲間として協力し合うようになるために、このリンゴはとても赤いというA君と共有できる物事の存在感を客観的な現実として感じとることができるようになっている、といえます。
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