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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

直感と乖離する科学

2010年09月19日 | xx3人類最大の謎

人間社会が効率化され、言語が発達して、人々の間で物事の見方、感じ方が広く共有されるようになると、客観的現実世界の存在感がきわめて強く共有されるようになります。そうなると、ここまでに述べてきたように、人間が感じとる自意識と客観的現実世界の認知との間の矛盾がはっきりしてくる。神話や宗教がうまく世界を説明していられる時代は、それでも矛盾は覆い隠されてきました。トーテムやタブーや祟りや妖怪や精霊を使って物事を説明できている間は、人々は安心して生きていられる。しかし近代にいたって、科学がひろく認められるようになると、客観的物質世界の存在感は極度に強まってきます。

世界は日常言語で説明されている限り、私たちの直感で理解できる範囲にある。日常言語は、主体客体、意志意図、存在感、自他認知、というような私たちの直感を使って、だれもが世界を共有することで成り立っているシステムだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。しかし現代科学はそういうシステムではない。現代科学は私たちが直感にもとづいて(主体客体、意志意図、存在感、自他認知、などの認識の上で)日常言語を使いこなすことで操作できるシステムではなく、高性能な望遠鏡や顕微鏡で測定した膨大な数値データを抽象的な幾何学と計算手続きによって操作しなければ理解できないシステムになっています。そのため、科学を理解する人々は、日常言語の感覚とはかけ離れた客観的物質世界の存在感を獲得していて、それが本物の世界である、と考えるようになります(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。

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存在と社会の相補性

2010年09月18日 | xx3人類最大の謎

Leighton_fs_music_lesson_3 たとえば、神棚と仏壇が同じ家にあっても、かまわない。たとえば、うどんとスパゲッティが同じ皿に盛ってあって、醤油とミートソースを混ぜたものがかけてあってもかまいません。だれも気にしなければ、それでよいではありませんか?またたとえば、身体と心、あるいは物質と精神が両方ともこの世に存在しても、たいていの場合はかまわない(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。さらに言えば、現実というものはひとつだけでなく、いくつもあってもかまわないのです(拙稿19章「私はここにいる」)。

物質も精神も、それぞれ人間の生活に必要だから存在している。リンゴの赤さもA君の心も、世界も私も、同じように、それぞれ私たちの生活に役に立つから存在している、といえます。そもそも(拙稿の見解では)、物事が存在するということは、それが存在すると感じとるように人間の脳神経系が進化したからだといえる。それが存在すると感じとることが、人間が生きていくために、特に人々が緊密な社会を作って気持ちを通じ合わせ、言葉を共有して、協力して生活するために有益だったから、それの存在感を感じとるように私たちの脳神経系が進化したと考えられます。

しかし、その後、人類の文明が急発展すると、このことがいくつかの不都合を引き起こしてきます。

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プラグマティストな私たち

2010年09月17日 | xx3人類最大の謎

こういう、いわば便宜主義を使いこなすことで、私たちは毎日つつがなく暮らしている。そのものが存在していると思い込むほうがうまく生き抜いていかれるようなものは存在していると思い込むことで、とにかく、とりあえず現実を生き抜いていく。つまりそれが、人間にとって、そのものが存在している、ということです。現実主義というか、いい加減主義というか、ちょっと自己欺瞞のようにも思える。そういうところが私たち人間の生き方、というか、生物一般の生き方にはあるのですね。

この世において、あるものは人間生活におけるある便宜のために存在している。別のものは人間生活における別の便宜のために存在している。その二つのものが同時に存在することは論理的に矛盾する場合がある。それでも、私たちが生活の場でその矛盾に気づかなければ問題はない。あるいは気づいても気にしなければよい。たまたまよけいな事に気づいた人がいて、その矛盾について語り始めたとしても、多くの人がそういう人を無視すれば問題ありません。

拝読ブログ:Merci beaucoup.

拝読ブログ:インディになれたらいいな(遠い目)

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存在の存在理由

2010年09月16日 | xx3人類最大の謎

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あるものがこの世に存在している場合、それが存在しないと、人間どうし一緒に暮らしていくために困る、という事情がある。たとえば、食べ物。食べ物がないと私たちが困るからそれは存在している。仮に私たちがロボットだったら、世の中に食べ物などありませんね。たとえば、命。命が存在していないと私たちは困ります。生きているのか死んでいるのか分からなくなってしまいます。戸籍制度も年金制度も葬式も死刑も消滅してしまいます。しかし仮に私たちがロボットだったら、世の中に命などありません。私たち人間が、こういうような社会を作ってうまく生きていくために必要だから、食べ物や命がこの世にある、といえます。

つまり人間がうまく社会を作って生きるために必要だから(拙稿の見解では)命は存在している(拙稿7章「命はなぜあるのか?」)。それがないと私たちが困るからそれは存在している。この世に存在するものは、それが存在していないと私たちが困るから存在しているものが多い。いや、拙稿の見解では、存在するものはすべてこういう事情によって存在しているといえる(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

拝読ブログ:神はイタリアに存在するのか・ナポリ・街並み

拝読ブログ:宇宙誕生に神は必要ない

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プラグマティズム

2010年09月15日 | xx3人類最大の謎

実際、世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる。当たり前ではないか、と思える。私たちは毎日これが当たり前と感じて暮らしています。こう感じていることで、毎日、ほとんど問題はない。実際まったく問題はないといえる。周りの人々は皆これが当たり前として生きている。それでだれとでも話が通じる。まったく問題はない、と思えますね。逆に、これが当たり前だと皆が思っていないと、困ったことになります。

拙稿の見解では、まさにここに謎にアプローチするためのカギがある。毎日、私たちが周りの人々と一緒に暮らしていく場面で、この謎は放置されたままでうまく働いている、といえる。実際、この謎は無視されている。むしろこれが無視されていないと私たちは困ってしまう。

私たちは互いに「世界ははっきりとここにあるし、私ははっきりとその中にいる」と思っているから話が通じ合って、お互いに何を思っているのか分かるのです。ここにあるこの世界があるのかないのかよく分からないとか、私がその中にいるのかいないのかよく分からないとかいうことを、多くの人が問題にしだしたら、とたんに、私たちは毎日、何を話せばいいのか分からなくなる。世界は、はっきりとここにあるということでないと、私たちは困ってしまいます。また、私が世界の中にいるということでないと、さらに私たちは困ってしまうのです。

拝読ブログ:近代科学と歴史

拝読ブログ:功利主義者の読書術/佐藤優

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