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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在の違和感

2010年09月24日 | xx3人類最大の謎

Leighton_fs_perseus_on_pegasus

共に語り合う仲間とともに世界をしっかりと共有している限り、私たちはこの違和感をあまり意識することはない。理論的には矛盾があることを理解しても、それに違和感を感じたり、つらいと感じたりすることはありません。しかしふつうまれにしか起こりませんが、これが身体に響くように感じる場合がある。たとえば共に語り合う仲間がまったくいなくなったとき、自分がこの現実世界の中に存在することの違和感は耐え難いものとなり得る。

だれも私を必要としない。だれも私を見ていない。だれも私の存在に気づかない。私が今ここに生きているということを知っているのは私だけだ。だれもそれを知ってくれない。これからも決してだれにも知られることはない。だれにも知られずに私は死んでいき、その後には何も残せない。それでも私はここにいる。私はこの現実世界の中にいる、という孤独な叫びに私たちは共感できる(拙稿19章「私はここにいる」)。

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私たちは何なのか

2010年09月23日 | xx3人類最大の謎

タヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵に、「私たちはどこから来るか?何なのか?どこへ行くか?」という文字が書かれています。画家の(自殺未遂に際して書き残した)遺書だといわれています(拙稿15章(6)「私はなぜ死ぬのか?」)。拙稿本章のテーマである存在の謎が、南海の孤島で孤独に芸術と格闘していた画家の懊悩のうちに浮かび上がってきた、と推測できます。

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問が孤独の深淵から湧きあがってきます。この謎を感じとる直感は(拙稿の見解では)、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)からくる違和感です。

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孤独と哲学の関係

2010年09月22日 | xx3人類最大の謎

Leighton_solitude

人はふつう、一人だけでは生きていない。仲間とともに暮らし続けることができる人々が経験しなくてすむような孤独感が問題です。そのような孤独な状況におちいった人だけが、本章のテーマである存在の謎をはっきりと感じる。

逆にいえば、人はきわめて強い孤独感を感じない限り、客観的現実世界と自分の存在矛盾に疑念を持たずに生きていける。現実世界と自分との関係に関する疑念は、深い孤独感に落ち込んだ人だけが感じる謎だ、ということができます。

存在の謎から発生したと思われる宗教や哲学が、死や老いや病気や社会的疎外と親近性があるのはそのためでしょう。また多くの宗教や哲学が出家や隠遁や瞑想を奨励していることも、孤独の問題と関係がありそうです。孤独な環境を故意に作ることによって、存在の謎を顕在化し神秘化することが宗教や哲学の使命であると思われているのかもしれません。

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寂寥の正体

2010年09月21日 | xx3人類最大の謎

世界と私が同時に存在することの矛盾について、ふつうの生活場面でふつうの人はそれに気づかない。気づかなければ、この矛盾は合理性の瑕疵あるいは生活上の支障としては表れない。人生という機構は、この瑕疵があってもふつうは支障なく働くようにできています。しかし人の人生では、たまにですが、この瑕疵が苦痛を引き起こすときがある。人生のあるときに、周りの人と通じない気持ちになるときです。世界をともに感じとる仲間がいないとき、人との接触がまったくなくなるとき、きわまりない孤独を感じるときです。逆に言えば、孤独に伴う苦痛は人生のこの瑕疵からくるといえます。

だれでも、自分が死ぬときを考えると孤独感に悩むでしょう。一人だけ難病にかかってしまったとき、あるいは年をとって子供が出ていき、同年代の配偶者も友人も皆死んでしまったとき、あるいは失業、左遷などで仕事仲間から落ちこぼれるとき、離婚や死別によって配偶者や家族を失い一人だけで生きなければならないとき、故郷や実家を遠く離れ帰ることができないとき、人はさびしくてたまらなくなります。しかし若く健康な人はしばしば孤独にはなっても、底知れない孤独感に悩むことは少ない。たとえば、外国に一人で暮らすとき、失業などで社会から極度に疎外されたときなどの場面が考えられますが、新聞、雑誌やテレビや携帯電話やインターネットやコンビニや宅配便などが普及した今日など、ふつうに暮らしている若い人にはそれほどの孤独はあまり起こりそうにありません。

拝読ブログ:新しい人生のはじめかた

拝読ブログ:暇つぶし

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自我意識の意味づけ

2010年09月20日 | xx3人類最大の謎

Leighton_fs_perseus_and_andromeda

日常言語で私たちが語り合っている物事は俗世間のいい加減な存在についての話であって、真に実在する世界は科学の描く物質現象でしかない、という考えが時代とともに強くなってくる。

そういう考えを持つ現代人は、客観的物質世界だけが実在する、という唯物論的考え方におちいる。物理学を理解する人々はさらにその傾向が強い。物理法則に従う物質・エネルギーの変遷だけがすべてを説明するという物理主義におちいる。さらに二十世紀に入ってから、進化論と分子生物学および脳神経科学の発展による生命・人体の物理現象への還元理論が完璧になってくると、科学の世界像から締め出される人間の感性や自我意識の意味づけが浮き上がってしまう。そうなると、世界を意識している自分とは何か、意識とは何か、という存在の矛盾に悩むことになります。科学者ばかりでなく、宗教を信じられない人々、不治の病気や障害をかかえて自分の身体の存在感に悩む人々、あるいは老齢になって死を恐れる人々、あるいは、社会から疎外されたと思い込む人、あるいは世の中は嘘ばかりと思う人、あるいは人生に懐疑する人々、など、この世の中での自分と自分の身体の在り方の意味をうまく理解することができずに苦しむことがある。そこに、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)が苦しみを伴って、はっきりと湧きあがってくる。

拝読ブログ:【哲学的ゾンビ】主観と世界、自分と客観【機械と人間の狭間】

拝読ブログ: 宗教科学は分離されていない(アニミズムと一神教と遺伝子操作キメラ生物)

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