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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

実体がない存在感

2008年10月06日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Vien_mars_venus

化け物、といい、命、といい、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉は、拙稿の言葉遣いによれば、みな、錯覚です(拙稿4章 世界という錯覚を共有する動物)。実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部第二部を参照)。物質世界の何かを指差して示すことができない。

しかし、だからといって、これらが、全部だめな言葉ということではありません。むしろ、実体がないのにそれだけ強烈に人の心に訴える。存在感の強い言葉たちです。それらは、人の心に訴えるだけの強いイメージを作り出すことができる。それらの錯覚を互いに共有し、互いに通じ合うことで、人間は緊密に協力し、団結して、生存競争を勝ち抜いていくことができた。だから、これらの錯覚は、存在すべきものだから存在している。私たちはこれらの錯覚を表す言葉を使わずに毎日を生きることはできない。人類の生活に必要不可欠のものです。これらの言葉を使いこなすことで、私たち人類は、生き延びて繁栄し、現代文明を作ったのですから。

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言葉の実用価値

2008年10月05日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

本当にこの世に化け物のような存在がいるかどうか、そういうことはたいした問題ではありません。いようがいまいが、私たち人間どうしが、「化け物」という言葉を使ってお互いに仲良くなれればよい。それでもう、その言葉の実用価値は十分ある。その言葉を使うときの、表情、声の調子、その前後の行動。そういうものでその言葉を使うべき雰囲気が分かってくる。それで私たちは「化け物」という言葉を使いこなすことができる。「化け物」の意味はそれです。それだけで十分です。十分はっきりした意味を持つ。

そういう意味で言葉の意味を知っていれば、もう適当に仲間に合わせていける。つまり、人間どうしの会話は完全に成り立つ。それだけで、その言葉を使う価値がある。そういう言葉は、実際の物質現象との対応があってもなくても、完全な会話に使える。そういう優れた能力が、人類の言語には備わっている。それで、私たち人間は、豊かな言語生活が送れている。

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皆が分かる⇔言葉が分かる

2008年10月04日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Vien_amours

だれもが分かるような気がするものは、だれもがはっきり分かる。はっきり分かるものは存在する。したがって、だれもが分かるような気がするものは存在する。だれもが分かるような気がするものについての言葉は、だれにでも通じる。そういう言葉で表されるものは存在する、ような気がする。そういう場合、言葉は通じる。

そういう言葉の錯覚によって、人間どうしが仲良くなれる。そして仲間どうしの連携が強化され、その一族は生存競争に勝ち抜いていく。つまり、仲間との運動共鳴を利用してそういう錯覚を作るDNA配列(ゲノム)が繁殖して、私たち現生人類になった。そういうわけで、私たち人間は、仲間の皆が分かるような気がするものは、はっきり分かるように身体ができている。仲間の皆が分かるらしい、という錯覚にしか根拠がない、ほとんど実体のない言葉を使っても、すぐ心が通じ合うような気になれる。気持ちが通じ合えば、その言葉は、はっきり分かる、ということです。むしろ、それが、分かるということの意味です。私たちは、そういう脳の構造を持っている。

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言語の最低条件

2008年10月03日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

要するに、「リンゴ」にせよ、「化け物」にせよ、どの場合も、言葉が通じるということは、話し手と聞き手の脳内で、その言葉に関する共通の神経活動が行われている、ということです。この共通の神経活動は、話し手と聞き手の間に集団的運動共鳴を引き起こす。集団的運動共鳴とは、互いの言動を見聞きすることによって、複数の人間に、同じような身体運動(脳内で運動信号形成だけが起こって身体は動かない仮想運動を含む)が起こることです。同じような身体運動は同じような感情を引き起こす。そうして気持ちが通じ合う。そのとき私たちは、言葉が通じる、と感じる。

その共通の神経活動は、拙稿の見解では、「リンゴ」あるいは「化け物」という言葉の意味に関する集団的運動共鳴に、「り・ん・ご」あるいは「ば・け・も・の」という音節列発音運動が連結した身体運動‐感覚受容シミュレーションです。「リンゴ」の場合は、リンゴという物質に関する私たちの共通経験としての、見たり触ったり食べたりしたときの集団的運動共鳴と、それに加えてこの言葉の使い方に関する運動共鳴がシミュレーションの中身になっている。「化け物」の場合は、物質的な共通経験はほとんどなくて、その言葉の使い方に関する運動共鳴だけがシミュレーションの中身になっている。どの場合も、(拙稿の見解では)言語が通じるための最低の必要条件は、その言葉の使い方を、集団的運動共鳴として、だれもが身につけている、ということです。逆に、その条件を満たしていれば、その言葉は、通じる。

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リンゴを揶揄する場合

2008年10月02日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Regnault1dibutad

「化け物」のように実体がない言葉について私たちは、物質を見たり触ったりする経験がない。しかし、「化け物」という言葉は、物質に関する経験に代わって、言葉の使い方についての集団的運動共鳴がはっきりとだれにも共有されているために、意味がはっきりする。一方、「リンゴ」のように物質として実体がある言葉については、その物質に関する経験で意味がはっきりする。この場合、「リンゴ」という言葉の使い方に関する集団的運動共鳴は、リンゴという物質に関する集団的な共通経験を想定する、ということです。たとえば、リンゴはおいしい、という物質的な経験をだれもが持っているだろうと想定しながら「リンゴはおいしい」と言う場合などです。

ただし、「リンゴ」の場合でも、リンゴという物質に関する経験を思い出すことよりも言葉の使い方についての集団的運動こそが重要だ、と皆が思っている場合には、そちらのほうで、その場合についての言葉の意味がはっきりしてくる。たとえば、リンゴがダイエットによい,という信念に凝り固まっている人たちをからかうことが流行している国があるとします。その国ではダイエットマニアの人を揶揄する場合に「あいつはリンゴだよ」と言って、皆でにやっと笑う。そうだとすると、その国では、リンゴの意味は「あいつはリンゴだよ」と言って皆でにやっと笑う、ということになります。そうなると、実物のリンゴなど見たこともなく、その形を想像する気もない人たちでも、「あいつはリンゴだよ」と言って、皆と一緒に、にやっと笑うことができるようになる。その集団的運動共鳴こそが、この場合、「リンゴ」という言葉の意味になっているからです。

拝読ブログ:Alien Resurrection (1997)

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