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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

自己中心と客観の順番

2008年10月16日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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ここで、うっかりすると混乱しそうになることは、自己中心視座と客観的視座の出現の順番です。系統発生的にも、個体発生的にも、まず自己中心視座が発生して、その後、客観的視座が作られる、という仮説は分かりやすい。事実、伝統的心理学でも現代の認知科学でも、ほとんどの学説では、この順番が認められています。発達心理学でも幼児の行動がこの順番で発達するらしいことが観察されている。拙稿も、基本的には、この仮説を採用します。ただし、ここで拙稿は、(系統発生的にも、個体発生的にも)客観的視座が作られた後、言語の発達にしたがって、自己中心視座の再導入が起こることを強調したい。

つまり、赤ちゃんには、まず自己中心視座が発生して、成長にしたがって、幼児になるころ客観的視座が芽生える。その後、今度は言語を習得した後で、言葉としての人称構造に伴って、もう一度、自己中心視座が再導入される。ここがちょっと複雑です。

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人称の導入

2008年10月15日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

人称構造もその一つです。目に見える物質を客観的世界視座から描写していた原初の言語の中に、(拙稿の見解では、たぶん数万年くらい前に)自己中心視座を使う人間関係の描写に便利な装置として、人称構造が発明された。

 洞穴にすむ原始人が会話しています。「コッチ、あったかい」と焚き火の近くに座る人が言う。「ソッチ、さむいだろ? いっしょにコッチすわろう」と入り口近くにいる人に声をかける。「コッチ」という言葉が第一人称代名詞になり、「ソッチ」という言葉が第二人称代名詞になっていったのでしょう。「ほんと、コッチはフトコロがさむいよ。ソッチはあったかそうでいいね」など、現代人も言いますよね。あるいは、「ニーちゃん、チーちゃんもつれてって!」と、弟が兄に言う。「チー」が第一人称、「ニー」が第二人称になった。人称代名詞は、このように指示代名詞、あるいは普通名詞から転用されてできた、という推測はもっともらしい(一九三四年 フランク・ブレイク「第一人称及び第二人称代名詞の起源」)。こうして、話し手と聞き手が共有する客観的世界の中に自己中心視座が導入される。

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社会生活に便利な錯覚

2008年10月14日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensleda

さらに次の時代(たぶん数万年くらい前)、人類は、(拙稿の見解では)言語を使って、大家族よりさらに大きな部族的な社会を作るようになり、各自がその大きな社会の一員として生きることで生存と繁殖を維持する動物となった。そうなると社会を維持するためにこそ、言語が重要となる。言語を使うことで、人間どうしが楽しく会話を交わし、仲良くなって協力し合い、社会と文化を維持できる。

その過程で言語は、社会生活に便利な種々の錯覚を発展させ維持する。心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉が作られていった。語彙は増大し、文法も、社会生活に便利な構造に進化してくる。

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最初は物質だけ

2008年10月13日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

さて、人間の言語システムは、(僭越ながら拙稿の仮説を述べれば)もともと原始生活の中で、物質現象の認知を仲間と共有する道具として、発生した。自然の中で人間は、視覚や聴覚を使って、仲間や自分の人体、そして害獣や食物や道具など物質の運動や変化を認知し、擬人化し、予測し、それに対応して身体運動を起こす。その身体運動を仲間と運動共鳴させて集団として群れ運動を起こす。その集団的運動共鳴を音節列記号に結びつけて言語化し、その身体運動‐感覚受容シミュレーションを仲間と共有することで、客観的な世界を共有する。

仲間と共有したその共通の世界認識の中に生きることで、人間は、互いに協力し合ってきた。このころ(たぶん、数十万年前)の人類の言語は、目の前の物質を見ながらそれについて指差すことで通じるような言葉だけだったでしょう。大家族の中での原始生活には、それでも、相当役に立つ。

拝読ブログ:パースの思想―記号論と認知言語学

拝読ブログ:言語の起源など

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人称の起源

2008年10月12日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rubensandromeda

それでは、こういう錯覚を作り出してしまう人称構造のような自己中心的言語構造はだめなのか? 客観的物質世界の中でうまく生き抜いていくためには役に立たないのか? こんな自己中心的な言語構造を人類が発展させたことは間違いだったのか? それはそうではないでしょう。役に立たない行動を引き起こす神経機構が、これほどしっかりと、生存競争を勝ち抜いた私たちの身体に備わっているはずがありません。

言語の人称構造は、人類の進化発展の過程でどのように発生したのか? この問題は、もちろん、実証科学としての現代の言語学では解明されていません。仮説を作っても検証がむずかしい。そういう事情で、まじめな言語学の研究対象にはなりにくい。まあ、それでも、厳密な言語学を述べる立場でもなく、仮説に実証を求められる立場にもない拙稿としては、ここでも遠慮せずに、大胆に自前の仮説を設けることでどんどん前に進んでみましょう。

拝読ブログ:やっとエンジンかかってきた

拝読ブログ:秘密結社鷹の爪 - 一言語学徒の日記

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