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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

運動形成過程の共鳴

2008年08月12日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

リンゴが下に落ちようとするその仮想運動とそれに伴うリンゴの存在感、それが話し手と聞き手の間で共有されていることを確認するために、述語「そこにある(存在動詞と呼んで特別扱いをする文法理論もあるが、拙稿ではふつうの述語と考える)」を主語「リンゴが」につなげて「リンゴが、そこにある」と言う。

話し手は、聞き手に、この身体運動‐感覚受容シミュレーション(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動とその体感)が共有されていることを確認するために音節列(「リンゴが、そこにある」)を発声する。この音節列が発音されるとき、話し手の表情、視線などの運動を見ると、聞き手は自分がそれ(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動と体感)を感じているような気になる。二人の身体がいっしょに同じ仮想運動をしている。人体どうしが共鳴する。実際は、脳の運動形成過程の共鳴です。そのとき、音節列(「リンゴが、そこにある」)、つまり「XXが○○をする」という言語形式は、聞き手と話し手を共通の運動共鳴でつなぐ。つまり言葉として働く。

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リンゴの存在感の客観性

2008年08月11日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Chasseriau_constantine

言葉を話すとき、話し手と聞き手がいる。話し手が、聞き手に向かって言う。

「リンゴが、そこにある」と言うとします。

リンゴが、そこにあるとき、「リンゴが、そこにある」と、話し手が聞き手に言う。

話し手は、なぜ「リンゴが」と言うのか?

話し手がリンゴに注目しているからです。そして、聞き手もまた、リンゴに注目してくれることを、話し手は知っている。期待している。つまり、このとき、話し手と聞き手の両方が、同時に、リンゴに注目することになる。こういうときに、話し手は「リンゴが」と言い出す。このとき、リンゴに注目する眼球の運動(あるいはその仮想運動)が、話し手と聞き手の両方の脳内で同時に起こっている。これが共鳴運動です。

リンゴの存在感を引き起こすこの運動共鳴は、人間が物事を注意する場合にいつも現れる共鳴です。リンゴの存在感があり、リンゴを見つめる仲間の人間の存在感があり、リンゴを見つめる仲間を見つめる自分の視線の存在感がある。これらの(相互依存する複数の)存在感を発生させる眼球の運動の共鳴が、(拙稿の見解では)リンゴの存在感の客観性を作っている。この神経活動の共鳴が、物事の客観的存在感を作り出す。つまり、物事を客観的に存在させる脳の仕掛けになっている。リンゴの存在を作り出すこの運動共鳴に「リンゴが」という語が対応する。この語によって、(拙稿の見解では)話し手と聞き手は、そのリンゴの存在を共有する。

このとき話し手は、なぜ、言葉によって、リンゴの存在を聞き手と共有しようとするのか? それは、これから、リンゴについて、一緒に何かをしたいからですね。つまり、話し手は、そのリンゴがどうなのか、どうなるのか、についての予測を、聞き手と共有したい。そして聞き手と同じその見通しの上で行動していきたい。そのために、話し手は、これから、擬人化されたリンゴに憑依して、そこで聞き手と共鳴する仮想運動を形成することによって、リンゴの運動と感情を感じ取るつもりだということです。

こういう場合、話し手は「リンゴが」と言い出す。こういう場合の「リンゴが」という語を主語という。

拝読ブログ:一緒にする

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存在の共有→言語

2008年08月10日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

別の言い方では、「リンゴはそこに存在する」ようになる。リンゴは落ちようとする重量感をもって存在する。その重さだけ存在する。リンゴの存在感というものは、私たち観察者の、こうした神経活動として、私たちの脳内に作られている。この存在感は、私だけでなく、どの人間も同じように感じるはずだ、と感じられる。拙稿の見解では、話し手と聞き手の脳にあるその共通の存在感覚、その神経活動、を共感するとき、(聞き手が自分自身である内語の場合も含めて)私たちは「そのリンゴが、そこにある」と思う。

これが存在の意味です。ここまでは言語がなくてもできます。人類の脳にある擬人化の仕組みは、こうして、リンゴをはじめ、ありとあらゆる物事の変化を、客観的に予測することができる。こうして人間どうし、だれもが共有するこの世界ができあがっている。これは擬人化という仕組みのすばらしい効力であります。しかし、擬人化のすばらしさはこればかりではない。擬人化が最高の効力を発揮するのは、それが「XXが○○をする」という形で言語形式に表現され、仲間と経験を共有するための仕掛けとなるときでしょう、

拝読ブログ:時は金なり?!

拝読ブログ:一応言っておこう、くそったれ。

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リンゴはなぜ落ちないのか?

2008年08月09日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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リンゴは机の上でなぜ静止しているのか? なぜ動こうとしないのか? リンゴを擬人化して見ている私たちは、無意識のうちに、その理由が分っている。リンゴは地球の中心を目指して落ちようとしているのですが、水平な机の面が下から支えているので落ちられずに机にくっついている。もし机の面が傾いていれば、リンゴは低いほうに転がる。机が水平な場合、リンゴは低いほうに転がりたいけれども、どの方向が低いのか分らないから、しかたなく、そこに止まっている。

擬人化したリンゴに憑依している私たちは、無意識のうちにそう感じている。実際、誰かが机の端を手で持ち上げて机を傾けようとすると、私たちは、リンゴが動かないうちから、まもなくリンゴは低いほうへ転げるだろうと感じる。私たちは、低いほうへ転げそうになっているリンゴの気持ちが分かる。

リンゴは、かつて誰かの手の中にあったはずだが、少しでも低いところに行こうとしてその手を下に押しているうちに、ここに置かれてしまった。その結果、この机の表面に落ち着いた、といえる。つまり、リンゴはそこに、落ち、着く。

擬人化されたリンゴは、下に落ちるという自発的な運動を加速しよう、という欲望(落ちたいという、あるいは、落ちてしまうという、リンゴの感情、と観察者である人間は感じる)を持つ。そのリンゴに注目する観察者は、リンゴのその落ちていく運動に共鳴して自分の脳に引き起こされる運動形成信号に誘発される感情機構の活動(たとえば、屈筋を緊張させる、あるいはその仮想運動の体感、平衡感覚、皮膚の圧感)を感知して、その感覚を記憶する。そういう神経活動の作られ方からして、そのリンゴは机の上に重量感を持って落ち着く。つまり、リンゴは、この世界に落ち着く。

拝読サイト:scar

拝読サイト:ネクタリン、リンゴ(ツガル)収穫完了

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リンゴの顔を認知

2008年08月08日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

擬人化されたリンゴの身体には、上下左右前後の三軸があることになる。正面があるはずですが、リンゴは丸すぎて分りません。リンゴに顔が描いてあれば、それが正面になる。私たちの視線は、顔のような視覚イメージに自然に引き付けられる。ロボットとか、案山子とか、鎧兜とか、雪だるまとかでは、どこが顔なのか、見ればすぐ分かる。私たちの脳には、視覚情報から、顔を顔と認める神経回路がある(一九九七年 ナンシー・カンウィッシャー、ジョシュ・マクダーモット、マーヴィン・チュン『紡錘顔領域:顔感知に特化したヒト高次視覚皮質のモジュール』、二〇〇七年 カレン・テイラー、リチャード・ヘンソン、キム・グラハム『記憶喪失における顔および情景の認識記憶』)。しかし、ふつうリンゴの表面に顔は描いてない。ラベルが貼ってあればそれが正面です。果物屋さんで並べられているとき、こちらを向いている面が正面でしょう。

まあ、正面は分からない場合でも、私たちは、机においてあるリンゴを見れば一瞬にして、リンゴが逆立ちしているか、傾いているか、分かる。逆立ちしているリンゴを見ると、何か不安な感じがする。ちゃんと正立に戻してやりたくなる。

拝読サイト:2歳4ヶ月

拝読サイト:お中元です~

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