リンゴが下に落ちようとするその仮想運動とそれに伴うリンゴの存在感、それが話し手と聞き手の間で共有されていることを確認するために、述語「そこにある(存在動詞と呼んで特別扱いをする文法理論もあるが、拙稿ではふつうの述語と考える)」を主語「リンゴが」につなげて「リンゴが、そこにある」と言う。
話し手は、聞き手に、この身体運動‐感覚受容シミュレーション(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動とその体感)が共有されていることを確認するために音節列(「リンゴが、そこにある」)を発声する。この音節列が発音されるとき、話し手の表情、視線などの運動を見ると、聞き手は自分がそれ(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動と体感)を感じているような気になる。二人の身体がいっしょに同じ仮想運動をしている。人体どうしが共鳴する。実際は、脳の運動形成過程の共鳴です。そのとき、音節列(「リンゴが、そこにある」)、つまり「XXが○○をする」という言語形式は、聞き手と話し手を共通の運動共鳴でつなぐ。つまり言葉として働く。
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