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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

話し手の自己中心世界

2008年09月06日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Berthelemy_bacchant

人称構造がはっきりしている西洋諸語(インドヨーロッパ語族)に比べて、(拙稿の見解では)そういうものがはっきりしていない言語、たとえば日本語、のほうが、人称変化が生まれる以前の言語の古い形態を保存しているとみますが、いかがでしょうか。人称代名詞や動詞の人称変化など人称構造は、話し手の自己中心世界からみた聞き手と第三者との関係の自己中心的方向性(ダイクシス)を示す。(話し手の自己中心的世界観については次章で詳論予定)。「私じゃなくて、君がそれをする」とか、「君じゃなくて彼がそれをする」とかいうことを気にしながら言葉を使おうとすると、人称構造が生まれる。話し手の自己中心世界の原点から聞き手、あるいは第三者の位置へ向かう視線方向を使って言語表現の差異を作ろうとすると、人称構造が現れる。

拙稿の見解では、言語はもともとは、集団的共鳴運動を表現することから始まった。原初の言語は、(拙稿の見解では)仲間の皆で何かをするとき、何をするのかを表現する。つまり、「だれが」、ということよりも、「何をするか」ということを表現するほうが重要だった。話し手と主語「だれが」との関係を示す人称構造は、一番重要なことではない。その後、言語がいくつもに分岐し、それぞれが発展する過程で人称構造ができてきたということではないでしょうか?

このような文法の進化に関して、多数の人々が使い込んでいるうちに、不規則性から規則性が進化してくる、つまり覚えやすい規則ができてくる、という興味深い理論が最近提唱されている(二〇〇七年 サイモン・カービ、マイク・ダウマン、トーマス・グリフィス『言語進化における生得性と文化』)。

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動詞の人称変化

2008年09月05日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ちなみに、このとき西洋語などでは動詞の人称変化がおこる。三人称の主語を受ける動詞は、英語の場合、Sがお尻につく三人称対応の形に変化する、などですね。日本語の述語は人称変化しない。拙稿の見解では、どの言語も人称変化がない時代を経ている。つまり、どの言語も、もともとは、人称というものはなかった。その後、人称が発明され、それが便利だったので、使われるようになった。西洋語などでは人称構造がよく発達して複雑な人称変化が定着し、日本語などではそういうものは発達しなかった。

この違いを社会や文化の違いと関連させて研究すると面白いと思いますが、言語進化の研究共通のむずかしさがある。過去の言語の変遷は文字資料が残っている千年あるいはせいぜい数千年までしかデータがない。世界各国語の大きな分岐時点は数万年前くらいですから、そのころ話されていた言語がどんなものだったか、知る方法が見つかっていない。

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主語としての名詞

2008年09月04日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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正確な言葉には主語がついてきます。「くみちゃんが腕を組みたい」という言葉を聞くと、聞き手の脳内には、くみちゃんという人物に注目し憑依する仮想運動シミュレーションが呼び出される。話し手が注目しているものに聞き手の注意を導く役割の言葉が主語ですね。話し手は、指差しや顔向けや視線による指示によって、一緒に注目したい物事へ聞き手の注意を誘導する。そのとき、しばしば話し手は、同時に声を発して指示を強調する。こういう場合、物事のカテゴリーを音声で言い分けると、指示に便利です。このために、名詞が作られてきた。名詞の使い方が皆に共有されると、目の前にそのものがなくても、分るようになる。聞き手は、くみちゃんとはあの子のことか、と分る。

こうして言葉を使うときは、話し手はまず「XXが(くみちゃんが)」と名詞を叫んで、聞き手の注意を促す。これが主語としての名詞の使い方です。「XXに注目せよ(くみちゃんに注目せよ)」、あるいは「これから話し手の私はXX(くみちゃん)に憑依して述語を述べるから、聞き手のあなたはその述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションができるように準備せよ」という意味です。

次に「○○する(腕を組みたい)」という述語が来る。これは運動を表す。(拙稿の見解では)話し手は、群の集団運動と共鳴する脳の神経回路を働かせて、それに連結した音節列として述語を発声する。聞き手がこれを聞くと、集団運動に共鳴する運動形成神経系が活性化されて、無意識のうちに共鳴運動が起こる。つまり聞き手の中で、話し手が使っているのと同じ群行動を追従する場合に使う集団運動形成回路が自動的に活動する。こうして述語が伝わる。それから瞬時に主語と連携して文を作る。

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形容しがたい感覚

2008年09月03日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

このような過程を経て言葉は話されるので、はじめに話し手が言葉を組み立てる前に形成していた仮想運動は、言語という型にはめ込まれることで、制約された共鳴運動の組み合わせに変換されている。言葉が発声された後では、話し手も聞き手も、言語化された集団的共鳴運動を意識し記憶する。言語化以前に話し手が形成した原型の仮想運動は記憶されにくく、言語化された後の共鳴運動は記憶されやすい。

物事は口に出すことではっきりするが、そのとき、口に出せない部分は欠落していく。言語化される前に私たちが漠然と感じている、いわゆる形容しがたい感覚あるいは感情(原型の仮想運動)は、言葉を口にすることで消え去っていく。

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擬人化というフィルター

2008年09月02日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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人類の言語現象について、安易に通信理論のアナロジーを使うと、本質を見誤る危険がある。気をつけなければならない点は、聞き手の脳内で言語が理解される過程です。これは通信理論でいうデコーディング(再生、解凍、暗号解読など)にあたるが、原型の情報が正確に復元されるデジタル通信のような可逆過程ではない。話し手が言葉を組み上げるきっかけとして作られた(原型の)仮想運動がそのまま聞き手の中で再生されことはない。

言語現象では、擬人化というフィルターを通った物事だけが伝えられていく。つまり、話し手の脳内に起こった仮想運動が、(拙稿の見解では)共鳴運動を引き起こして擬人化による物事への注目が起こる場合にだけ、その共鳴運動は言語化される。この場合、擬人化された物事は主語を引き起こし、その共鳴運動が述語を引き起こす。

こうして、主語述語の形式で物事の動きとその内的感情の集団的共鳴を表現する(擬人化による)仮想運動が、聞き手の脳内に新たに作り出される。主語述語の形式で聞き手に伝えられる言語表現は、聞き手の脳内で、物事のシミュレーションとその内的感情の仮想共鳴運動に変換される。聞き手の脳内で形成されるこの仮想運動は、集団共鳴による強い存在感を伴うので、はっきり意識に残り長期的に記憶される。

同時に、話し手も自分が発声した言葉の聞き手になるので、言葉を形成する仮想運動は、同様に話し手の意識にも残り記憶される。物事は口に出すことではっきりする、あるいは、明確な思考は言語でなされる、という私たちの経験は、(拙稿の見解では)ここから来ている。

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