人称構造がはっきりしている西洋諸語(インドヨーロッパ語族)に比べて、(拙稿の見解では)そういうものがはっきりしていない言語、たとえば日本語、のほうが、人称変化が生まれる以前の言語の古い形態を保存しているとみますが、いかがでしょうか。人称代名詞や動詞の人称変化など人称構造は、話し手の自己中心世界からみた聞き手と第三者との関係の自己中心的方向性(ダイクシス)を示す。(話し手の自己中心的世界観については次章で詳論予定)。「私じゃなくて、君がそれをする」とか、「君じゃなくて彼がそれをする」とかいうことを気にしながら言葉を使おうとすると、人称構造が生まれる。話し手の自己中心世界の原点から聞き手、あるいは第三者の位置へ向かう視線方向を使って言語表現の差異を作ろうとすると、人称構造が現れる。
拙稿の見解では、言語はもともとは、集団的共鳴運動を表現することから始まった。原初の言語は、(拙稿の見解では)仲間の皆で何かをするとき、何をするのかを表現する。つまり、「だれが」、ということよりも、「何をするか」ということを表現するほうが重要だった。話し手と主語「だれが」との関係を示す人称構造は、一番重要なことではない。その後、言語がいくつもに分岐し、それぞれが発展する過程で人称構造ができてきたということではないでしょうか?
このような文法の進化に関して、多数の人々が使い込んでいるうちに、不規則性から規則性が進化してくる、つまり覚えやすい規則ができてくる、という興味深い理論が最近提唱されている(二〇〇七年 サイモン・カービ、マイク・ダウマン、トーマス・グリフィス『言語進化における生得性と文化』)。
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