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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

運動共鳴→言語

2008年09月16日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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「今日は暑いですね」というとき、その言葉と話し手の脳の神経回路が発生している電気信号との対応はどう考えればよいのか? それは、屋外のかんかん照りの路上で立ち話するときでも、屋内のエアコンで涼しい部屋に座って会話するときとでも、同じ意味になっているはずです。でも、かんかん照りで汗だくになっているときの私たちの脳の状態と、「暑い」という言葉とは関係がある。

皆が「暑い、暑い」といいながら、汗をだらだら流して、服をはだけてウチワを使っている。もちろん、自分も暑い。そういうとき、暑さを少しでも和らげたい、という気持ちが、皆の間で共有されている、と感じる。袖をまくりあげて自分を扇いでいる人を見ると、無意識に同じ事をしてしまう。暑さを和らげようとする運動が共鳴している、といえる。これは人間集団の中で起こる運動共鳴です。皆が暑いときの運動共鳴が、脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションを形成している。このシミュレーションは記憶され、(拙稿の見解では)「暑い」という言葉で、それが想起される。そういう仕組みで、言語は作られている。

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世間話やビジネスや科学

2008年09月15日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

 昔の哲学者が考え出した難解な哲学語を語ることよりも、もっと身近なことで、もっと哲学を必要としていることがある。世間話やビジネスや科学に使われている分かりやすい言葉は、なぜ分かりやすいのか? なぜそれらが分かりやすいのかは、必ずしも分かりやすくはない。それらの分かりやすい言葉が人間の脳という物質現象として現れてくることを、どのように考えればよいのか? 哲学が、今なすべきことは、またまた新しい抽象語を作って分かりにくい観念をますます分かりにくく表現することではないでしょう。まして、昔の哲学者が苦吟して作り上げた難解な哲学語をさらにむずかしく解釈することでもない。むしろ、世間話やビジネスや科学に使われているような分かりやすい言葉を使って、分かりやすいものどうしの関係がなぜ分かりやすく説明できないのか、それを語ってみることが重要でしょう。科学がここまで発達した現代において、その成果を利用できるチャンスを、哲学は、ぜひ生かすべきではないでしょうか?

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現代哲学の傾向

2008年09月14日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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現代の哲学は、数学などと同様に、目の前の物質に関与しない抽象表現を好む。かつて、哲学は、自然哲学を展開して物質について論じた。ところが、自然科学が哲学から分離し、物質に関する知識が大発展すればするほど、哲学は物質から離れていく傾向を見せる。

哲学は、物質の知識に巻き込まれないように、言語の使い方を厳密に制限することで隙のない理論を作ろうとします。言語知識だけで成果を上げられそうなところを求めていく。論理が自明な、弱みのない理論を書いていく。論理的な言語操作だけで勝負しやすいところに集中してしまう。その結果、哲学の議論は、狭い趣味のサークルで作られる仲間言葉(ジャーゴン)のような言葉遣いに似てきます。そうなると、ふつうの人間にとっては、近づきがたくなる。そういう現代の哲学は、私たちの毎日の暮らしには役に立ちそうにありません。

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拝読ブログ:自然科学者としてのデカルト

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抽象表現と錯覚

2008年09月13日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

 人間も、他の哺乳動物と同じように、その神経活動は、五感や筋肉運動などを介して目の前の物質に関係する活動が多い。同時に自律神経系や体性感覚神経系のように体内の筋肉や分泌腺、内臓、血管などの活動を媒介する感情に関係する活動が多い。したがって、目の前の物質や今起こっている物事に反応する感情を表わす言葉は、私たちには分かりやすく、だれもが共感することができる。言葉として、だれにでも、間違いなく伝わる。

それ以外の目に見えない、物質や身体や感情にあまり関わらない抽象的な言葉遣いは、むずかしい。ふつうの人には、すぐには理解できない。そういう表現を使いこなしたいという意欲が強く、かつ毎日のようにそういう表現に慣れ親しんでいる専門家や、趣味のグループの人々にしか、理解されない。宗教や教育などによって、長い時間をかけて社会に浸透していけば、むずかしい抽象語も広く使われるようにはなる。あるいは、現代であれば、学校やマスコミを通じて頻繁に繰り返して人々に教え込めば、抽象表現も流行語になり、感性で分かるようになる。それらは短い時間で広まり、一般に伝わるようにはなる。しかし、それによって、何が伝わっているのか、実は、だれにもよく分からない。錯覚はそうして作られ、広く伝わっていく。

 抽象的なものや、目に見えないものを表現する言葉は、しばしば、そうして作られる。

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拝読ブログ:「交易する人間」の無意識的な求めとその現れ(結論に向けた間章:12)   

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数学―自己完結型の言語

2008年09月12日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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不正確な言葉を使って分かりにくい会話や議論をする場合、あるいは書く場合、特に抽象的な書き言葉を使う場合、言葉は目の前の物質現象や単純な感情に頼るわけにいきません。正確な伝達をしたいのであれば、別のものに頼るしかない。たとえば、数学は、論理計算のルールを作ることで物質や感覚、感情と関係なく自己完結することに成功した。現代の哲学の一部も、数学をまねて、論理だけで自己完結することに目標を置いて成功したものがある。しかし抽象語の操作に終始するこういう自己完結型の言語は、脳内の神経活動のごく一部しか表現できない。感情とか人情とか心とか、人間が大事だと感じるものを表わすことができません。

論理的に自己完結する言葉は、数学などのように厳密に設計されたものしかない。それらは、私たちが一番大事だと思っている感情や心を表すことができない。感情や心を表すことができるものは、私たちが毎日使っている直感によるふつうの言葉です。これらは、逆に、数学や科学を正確に表すことができない。ふつうの言葉は、世間話のような軽い話題ならば正確に伝えられるが、哲学のようなものを語ろうとすると無理です。私たちの直感は、身の回りの物事を身体で感じる。しかし、身体で感じたことを、そのまま、ふつうの言葉で語っても、自然の法則を正確に伝えられない。抽象的な数学と科学の言葉を使ってはじめて、私たちは自然を正確に表現し、互いに共有できる。

拝読ブログ:私書箱と不完全性定理

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