しかし、科学の描写する物質世界と私たちが身体で感じ取る現実とはもともと違う。さらに私たちが日常会話で話題を交し合う客観的現実はまた、そのどちらとも違う(拙稿19章「私はここにいる」)。
私たちは、「~する」という図式の言葉をこれらのいずれの世界を語る場合にも使う。違和感を持たずに使っています。そういうことでいいのか? そもそも「~する」という図式の言葉は何者なのか? 私たちが毎日何気なく使っている言語というものは、いったい現実を正しく表すことなどできるのか?
この辺があやしい、ここら辺が私たちの哲学、私たちの世界観、私たちの人生観、が混乱する原因ではないのか、と拙稿は考えます。
拝読ブログ:時空の素粒子
拝読ブログ: 皆の意見を知ろう~(^O^)/」について