「命」とか、「心」とか、「自分」とか、強い存在感があるのに目には見えず神秘的でつかみどころのないもの、宗教家や哲学者は、そういうものを、直感を頼りに考えぬくことでこの世の謎を解こうとするわけです。いつかは真理に到達できる、と思うのです。そうすると、どうしても錯覚と格闘することになってしまう。間違いに間違いを重ね、神秘感に落ちいり、言葉の罠に落ち込み、堂々巡りになってしまうのです。
物質で示すことのできない錯覚は、よほど育ちが似ていて、ツーカーの間柄でないとなかなか伝わりません。言葉で懸命に語っているのに、相手は理解してくれない。それで人間の間に、反目と対立が起きてくる。分かってくれない相手に対して、警戒、蔑み、憎しみのような感情が起こるでしょう。異なる神を信仰する者たちを憎み恐れるのは、当然です。それで育ちが違う人間の間、違う宗教の間、異文化、異文明の間、の相互理解はむずかしくなるのです。現代に至って、ますます、人類共通の哲学は作れそうになくなってきました。相互理解の限界、言語の限界、哲学の限界が頻繁に語られる一方、希望はちっとも見えてきません。空転する議論に疲れて、哲学者もニヒリズムに陥っていきます。