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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

真理を語るかどうかではなく

2007年02月25日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

そういう哲学を持った人々の集団は、死者の怨念を恐れて裏切りや暗殺を控えるようになるでしょうから、仲間どうしの信頼感は増し集団の団結が高まって繁栄するでしょう。「魂はある」と感じるような脳の機能を持った集団の人口は増え、その脳機能を作るDNA配列(ゲノム)を子孫に伝え、そういう哲学を伝える文化を子弟の教育によって伝承していきます。

そうしてこの世に魂というものが実際にあってもなくても、「魂がある」と感じる人間集団の数は増えていくのです。「魂がある」と教える宗教や哲学は、これまで有史以来、ずっと多くの人々を導き、生活を豊かにし、人口を増やすという実用性を持っていました。この哲学、あるいはそれが表現する魂、のように目に見えない存在をだれもが感じることによって犯罪や裏切りは抑止され、社会は安定して繁栄し、人々は安心して生活し、その結果、経済や技術が発展したのです。哲学は実用的なものでした。哲学は、真理を語るかどうかではなくて、真理を語るとされることによって実用的に生活に役立ったのです。

しかし現代になって、状況は違ってきたのではないでしょうか?

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魂の怨念を怖れて鎮魂祭

2007年02月24日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

大昔、人類が暮らしていた自然の中には謎の現象、神秘の体験がけっこうあったはずです。それから、もののけ、精霊、天狗などが作られました。「私はそれを見た。それはいるのだ! 信じろ! それは本当にいるんだ!」と真剣な顔で言う人がいつも何人もいたでしょう。「その通り!」と低い声で叫んで皆を感動させる長老がいたでしょう。錯覚はそうして集団的に作られ維持されてきたのです。

人間は人の心について考える。人の顔を見ると、いつもその顔の内側に心を感じる。顔を見ないときもその心を感じる。だからその人がそこにいてもいなくても、その人の心はどこかにある。その人が死んでしまってもどこかにあるのではないか、と思える。それがです。だから「魂はある」と長老が言い、皆が互いにそう言い合っていればその集団の知識としては、それがあるということになります。それで怨念を持って死んでいった人の魂、あるいは「もののけ」、が生きている自分たちに復讐しないように、に祭って鎮魂祭をしたりするのです。

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宗教と哲学の始まり

2007年02月23日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

人類は、権威があり信頼性がある集団知識を蓄積し維持し、それによって周辺環境の変化の法則を知り、それを使って明日と明後日を予測して生きていく動物です。しかし、予測はやはり不確かな感じがして、頼りない。なるべくその確からしさを保証してくれる仕掛けが欲しい。一回一回の予測ではなく、予測全体に通じる基本的な保証が欲しい。つまり、世界の仕組みをしっかり教えて欲しいわけです。そのためには、誰かが権威あるやりかたで世界の原理を解明して、人々に教えてくれなければなりません。それが神話の始まりであり、後の時代の宗教と哲学の始まりです。

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集団知識の権威と人類の進化

2007年02月22日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

たぶん人類の脳は、進化の結果、哲学する傾向を持つようになったのでしょう。

私たち人間は、他の動物と違って自分の身体が客観的な物質世界の中に置かれていることを知っています。というか、少なくとも、そう思い込んでいます。まあ、みなさん、そう思い込んでいるでしょう? 筆者も実はそうです(脳のこの興味深い仕組みについては後の話題にします)。自分という身体が置かれているこの世界は、どういうふうに動くものなのか? どう変化してこれからどうなるのか? その中にある自分の肉体は、これからどういう影響を受けるのか? そういうことを、いつも知ろうとするように、人間の身体はできているのでしょう。

人間の脳は、世界の原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を吸収し、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んでいくようにできているようです。人間の脳は、たぶん、権威を持った尊厳のある大きなものにひれ伏し、導かれ、追従する、という神経機構を持っているのでしょう。その神経機構の集団的な働きにより、人類は権威を作り、権威のある錯覚を作り、言い伝えを作り、ついには経典や法律を作って、そこに集団としての経験を集約し、実用的な知識を蓄積してきました。権威を持った集団知識の集積を作り、その教えにしたがって集団として生活していく(集団知識の研究は、たとえば一九八九年 マーガレット・ギルバート『社会的事実について』)。これは確かに、安全で効率的な生活様式です。そうすることで有利に生き抜いてきた動物の子孫が私たちなのでしょう。そして人類は、文明社会を作った。そのこと自体の善悪、あるいは個人的な好き嫌いはいろいろあるでしょうが、事実として、それをするような脳を作るDNA配列(ゲノム)を獲得して進化した人類が、他の旧人類たちとの生存競争に勝って、今のように世界中に増殖した私たち現生人類、ホモサピエンスサピエンス、になったわけですね。

最近の健康志向ブームに便乗して、テレビなどでニセ科学まがいがはびこっているようですが、これなども、権威がありそうな集団知識に乗り遅れたくないという人間の神経構造を利用した商売でしょう。

拝読ブログ:疑似科学、非科学、ニセ科学、エセ科学。

拝読ブログ:アイヒマン実験

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哲学をすることはとても危険

2007年02月21日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

Hatena28 それなのに、人間はなぜ哲学をするのか? なぜ神秘を追い求めようとするのか? なぜそんな難しいものを考え、語ろうとするのか?

それはたぶん、かつてそうすることが人類の生存に有利だったからでしょう。全然哲学しない人類は何万年も前に滅びたのではないでしょうか。間違った哲学でも、哲学するほうが、しないよりも生き残りやすかったに違いありません。

あまり哲学しない現代人は、昔の人に比べて、生き生きとたくましく生きているでしょうか? 何ものをも信じないニヒルな現代人は、幸せそうですか?

そうではないようです。たとえ錯覚であっても、しっかりした自分の信念やゆるぎない物の見方を持っている人々のほうが、着実に仕事をこなし、周りの人々としっかりした人間関係を保ち、立派な子孫を残し、人生をたくましく、幸せに生き抜いていくようにみえます。そして、そういう信念や物の見方は個人のものではなく、宗教や文化を同じくする大きな集団の中に共有されて、強固に維持されてきたのです。

かつては宗教が、そして少し前の時代には学校や書籍やマスコミが、集団知識の権威を代表していました。しかし現代、それらの権威は揺らいできました。さらに悪いことには遠い国の異なる考え方が浸透してくるのです。かつて地理的モザイクのように宗教や文化が分断され情報の流通もなく、境界での接触も少なかった時代には平和でした。しかし、現代は、どうしても遠くの地域の思想がしみ込んできてしまいます。グローバリゼーションの現代、文明と文明、文化と文化が接触し衝突していきます。その結果、これまで宗教や文化を同じくした伝統的な共同体や文化を共有する集団の内部でもまた多様な価値観が表れ、価値観は個人個人に分断され、個人と個人はお互いに相互理解がむずかしくなっていくようですね。

そんな現代の状況で哲学をすることは、とても危険です。安全で安心な生活がしにくくなるでしょう。それなのに現代の若い人の中からもまだ、哲学をしようとする人が出てきます。危ない話です。

拝読ブログ:ダーウィンの悪夢

拝読ブログ:言語・文化・民族・国家

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