天才的な哲学者が現れたとしても、その才能は古い錯覚を批判し,新しい錯覚を発明して、それで人々を説得すること、つまり古い曖昧な言葉を言い換えて、新しい曖昧な言葉で世界を語りなおすことに使われるしかないでしょう。
それはそれで、時代に合わせて社会を運営するためには大事な才能です。人々が、周囲の仲間との毎日の会話を通して自分が日々なすべき仕事をはっきりと理解し、それぞれの持ち場を懸命に守っていくようにしむけなければなりません(また、そうなることが、支配体制にとってはぜひ必要なことです)。都合のよいことに、人間の脳神経系は、なにか大きな神秘的で尊厳のありそうなものにひれ伏し、つき従おうとする傾向があります。この傾向を利用すれば、偶然見つけた神秘的な現象をうまく組み立てて、神聖な物語に作り上げ、人々に受け入れさせることができます。
極端に言えば、手品でもいい。日食のときに、深刻そうな顔をして、わけの分からない呪文を唱えれば、太陽はこの世に戻ってきます。その手品を、手品師自身が心から不思議だと思ってしまうと、哲学になります。ふつう、この手品には日食のような自然現象ではなくて、言葉が使われます。言語技術による手品ですね。「死とは何か?」、「人生の目的は何か?」などと叫んでみる。そのときに、手品師自身が自分の作った手品の不思議さに魅入られてしまうと、本物の哲学が始まるわけです。その場合、その不思議さが人々を神秘感に誘い込んでしまうと、社会の役に立つことになります。つまり、言語技術の手品師は職業としてなりたつ。少なくとも、支配体制から給料をもらえます。
そういう社会現象として、優秀な言語技術者たちは、あるときは神官、あるときは官僚、あるときは学者、教育者、マスコミに姿を変えて、この世の神聖な、尊厳のある、権威ある仕掛けを再生産していきます。これらの優秀な人々の努力によって、時代にあわせて哲学は改訂され、新しい哲学によって改めて明瞭になった言葉を使いこなして、新しい宗教、新しい神話、新しい道徳、新しい法律が作られてきたのです。
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