しかし、現代の私たちは忘れかかっていますが、ヨーロッパでもその他の地域でも、西洋型の個人としての「私」が出現する近代以前、大多数の人々は自分個人ではなく部族集団の生存を最大の関心事として行動していたのです。つまり、かつて「私」と「私たち」は同じものだった。逆にいえば、たった一人の個人としての「私」というものは、はっきりした存在感を持つものではありませんでした。 日本なども、中世までは部族共同体の名残を残す集団中心的な行動様式がほとんどでしたが、近代になってから急速に西洋文明に感化されたためか(そうではなく日本の封建制が西洋封建制に類似していたためだという説もあるが)、自分個人の人生目的を追求する(近代的な)行動様式に変わってきています。現代では、特に米国文化の影響を受けてすっかり西洋文明の一員になってしまったといわれる日本では、欧米と同じく、言葉によって自我を維持しようとする西洋哲学の考え方がいきわたっているように見えます。しかし、二、三千年前までは西洋の人々も、また現代でもアジア・アフリカの人々のほとんどは、部族共同体の一員としての個人、という行動様式で人生を生きていたし、今も生きています。つまり二百万年以上にわたって人類が続けてきた部族集団中心の行動様式に対して、個人単位の行動様式というものが顕著に現れるようになったのは、つい二、三千年前からの西洋のごく一部であり、本格的に世界中で現れるようになったのは、この二、三百年です。これは、前者を過去の蛮習として捨て去るにしては、大きすぎる事実ではないでしょうか?
拝読ブログ:「なぜお金はすべてなのか」
拝読ブログ:一夫多妻の世界 <ダニ族編 ②>