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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

西洋型の個人

2007年10月12日 | x2私はなぜあるのか

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しかし、現代の私たちは忘れかかっていますが、ヨーロッパでもその他の地域でも、西洋型の個人としての「私」が出現する近代以前、大多数の人々は自分個人ではなく部族集団の生存を最大の関心事として行動していたのです。つまり、かつて「私」と「私たち」は同じものだった。逆にいえば、たった一人の個人としての「私」というものは、はっきりした存在感を持つものではありませんでした。

日本なども、中世までは部族共同体の名残を残す集団中心的な行動様式がほとんどでしたが、近代になってから急速に西洋文明に感化されたためか(そうではなく日本の封建制が西洋封建制に類似していたためだという説もあるが)、自分個人の人生目的を追求する(近代的な)行動様式に変わってきています。現代では、特に米国文化の影響を受けてすっかり西洋文明の一員になってしまったといわれる日本では、欧米と同じく、言葉によって自我を維持しようとする西洋哲学の考え方がいきわたっているように見えます。しかし、二、三千年前までは西洋の人々も、また現代でもアジア・アフリカの人々のほとんどは、部族共同体の一員としての個人、という行動様式で人生を生きていたし、今も生きています。つまり二百万年以上にわたって人類が続けてきた部族集団中心の行動様式に対して、個人単位の行動様式というものが顕著に現れるようになったのは、つい二、三千年前からの西洋のごく一部であり、本格的に世界中で現れるようになったのは、この二、三百年です。これは、前者を過去の蛮習として捨て去るにしては、大きすぎる事実ではないでしょうか?

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「私」が世界を征服した

2007年10月11日 | x2私はなぜあるのか

歴史時代以降、人類の生活においては、社会活動の発展によって人間関係の重要さがまし、また哲学や宗教による人間関係の理論化などのおかげで、「私」はますます重要になっていく。特に、西洋の近代哲学は、自分の行動を計画する「私」の使い方に注目しました。これを人間にとって最も重要なものと位置づけ、主体的な自我という概念を作り上げた。身の回りの世界で、特に人間社会の中で、自分という人間がどう見えるのか、それが他の人々との関係でどう動いていくのか、それに注目して将来を予測し、自分の意思で目的を持って行動するべきだ、と人々に教えました。

自分というものを考えるということは、だれでもいい仮想のだれか他人による注目を想像して、自分の行動を作っていくということです。「だれでもいいだれか他人の注目」という感覚は、神様の視線、という想像に通じている。それがキリスト教の教えに重なっていたことが、西洋で特に受け入れやすかった理由でしょう。都市文明が近代にかけて大発展してくる中で、それにキリスト教、ルネッサンスの歴史的な重なりが強く影響して、近代西洋の自我意識を作っていったのでしょう。

この西洋特有の発想のおかげで、西洋人は個人としてひとりひとりの立場で、自分の現状を理解し、将来の状況を予測し、計画を立てて、個人的な目的を追求できるようになりました。この結果、西洋人の作る集団は非常に強い組織力を持つようになった。西洋の教会、国家、組合、企業、軍隊、などの集団組織は目的のしっかりした人間どうしの言葉による相互了解、ルール、約束あるいは契約、を通じて構成できることになる。個人は、組織の歯車として組み込まれる自分を、他人の目ではっきり客観的に見つめることで、組織に役立つ行動をとれるようになった。西洋文明は、このような個人を最も明確に確立することで、世界で最も効率的に目的を追求できる集団的能力を獲得したのです。

個人が自分を客観的に見つめて、その身体を計画的に自由に運転する。自分のために理性で考えて、自由な意思を持って自己の長期的な利益のために行動する個人、という人間のあるべき姿は明白になり、世界の合理性は疑いないものとなった。それは個人が作る人生の計画を安定させ、人間関係を安定させ、社会を安定させ、商業を発展させ、科学技術を発展させました。それらを駆使して西洋文明は大成功し、世界に広がっていったのです。

このような「客観的世界の中に生きる個人である私」の発明は、人類の文明を大きく発展させました。陸上動物が肺を発明して陸を征服し、鳥が翼を発明して空を征服したように、人類は「私」を発明して、地球全体を征服したのです。

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私という道具

2007年10月10日 | x2私はなぜあるのか

Gerome2 世界の中におかれている「私」という人物像を運転して、仲間と社会を作っていく。社会というドラマの中で「私」という配役を演じながら、また観客としてそれを見ている。ドラマの観客のようにキャラクターである「私」の演技をみまもり、ナレーターのように行動を解説し、ゲームのプレイヤーのように「私」を操縦して、人生というゲームをプレイしていく。そういうふうに私たち現代人は生きるようになった。

こういう「私」の使い方は、便利です。(拙稿の見解では)数万年前から人類は、脳内で「私」という錯覚を作り出して言葉に表し、上手に使ってきた。これは、石斧と同じように生活に不可欠な道具になったわけです。石斧が刃物になり、旋盤になり、レーザーカッターになったように、「私」の使い方も技術的に進歩していく。道具が高度に発展してすばらしく便利になると、私たちは道具に依存しすぎて、道具を使っているのか使われているのか、分からなくなるようなところがありますね。たとえば現代人は、睡眠時間以外はいつも携帯電話を握っている。私たちは携帯電話に奉仕し、そのシステムを稼動させるために生きている、と見ることもできる。同じように私たち現代人は(動物や原始人と違って)「私」という錯覚に奉仕し、その錯覚を生成する神経システムを稼動させるために毎日を生きているわけです。

拝読ブログ:ようするに・・

拝読ブログ:「不携帯生活」@ドイツ キールの自宅

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声を出さない独語

2007年10月09日 | x2私はなぜあるのか

話しながら、私のことを私と言っている私を私は観察する。脳内で、その記憶が「私」の存在感を作る。そして、聞き手がいないときにでも、「私は・・・」と言ってみる。声を出さずに自分にだけ分かるように、それを言ってみる。それで、私は、他人から見た私という人間がどんな感じに見えるか、を知ることができる。つまり、「私」という言葉が、独り言の場合にも使えるわけです。

だれでもいいだれか他人に、私がすることを説明する。そうすると、ドラマのナレーターのように、客観的に、私という役者の行動を言い表せますね。これは便利です。私というその人間がこれからどう動けばどんなことになるか、予想しやすい。実際、そうしてみると生活がうまくいく。特に、人間関係つまり社会生活がうまくいきます。それで人類は「私」をそういうふうに使うようになった。現代人の私たちはいつも声を出さない独語を使って自分の行動を計画し、他人から見えるはずの「私」というシミュレーションを運転するようになったわけです。

拝読ブログ:起床直後

拝読ブログ:ラブコメ的女主人公について

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「私」の使われ方

2007年10月08日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereauxx 「私」は、もともと他人と交わる便宜のために作られた概念です。他人と話すとき、私は私自身の身体を聞き手の視点から見ている。話し手である私は、聞き手が分かりやすいように話そうとする。筆者も幼児に話しかけるときは「ぼくちゃん。おじちゃんはね」とかいいます。「おい子供。俺はなあ」などとはいいません。聞き手から見て、私は一人の人間であるに過ぎません。その人間が何かする、ということを言いたいとき、その人間、つまり私のことを指す言葉が必要ですね。自分を「おじちゃん」と呼ぶのもいいですが、ちょっと無責任な感じがします。話し手が意思を持ってその行為をするのだ、ということをはっきりさせたい場合に、聞き手から見て今発言しているその人物を指す言葉が、「私」です。「私」とは、もともと、「あなたに聞いてもらいたくて今発言している話し手がここにいます」ということを聞き手の立場から見たときに分かりやすく表現することで聞き手に理解してもらおうと思って話し手が使う言葉ですね。

 言い換えれば、「あなたに対して今発言しているこの人体に、あなたは憑依してみてください。そうすれば、『私が○○する』というときに、あなたは自分が○○するように感じられるでしょう? それで会話が続けられるのですよ」と言いたいときに、私たち人間は「私」という言葉を使う。

そこから始まって「私」の使われ方は、かなり発展します。

拝読ブログ:BRUTUS (ブルータス) 2007 10/15

拝読ブログ:長雨

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