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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

反科学神秘主義

2007年10月18日 | x2私はなぜあるのか

Geromejeanleonharempool では、どこに私はあるのか?

私は私が世界の中心だ、と感じたりもする。私は私を何よりも大切にしている。私は私の幸福を少しでも増やすために毎日、すべての情熱と努力をつぎ込んでいる。私は、少なくとも私にとっては他のどの人間とも違って特別に重要な人間だ。と人間はだれもが思っています。

けれどもその感覚は、この物質世界のどこにも根拠がない。この物質世界では、私は一個の、人の形をした物質だというだけで、世界の中心でもないしむろん特別に重要でもない。物質であれば、原理的にはいくらでもコピーが作れます。そこら中にあるふつうの物質と違いはない。私が何を思おうと、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んでも、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んだ次の日も株式市場は今日と同じように活発だろうし、今から一万年後でも地球自転の角運動量は変化せず、そのために毎朝必ず太陽は東から昇るに違いない。そういうことはよく分っていても、ほんのちょっと、何か割り切れない感じがある。人間は、皆こういう感じを抱いて生きています。

私が感じている私のこの気持ちは、他人の目にも見えるこの物質世界の中をいくら探しても実は見つからない。それが空しい、というか、すこしさびしい。その空しさもそのさびしさも、どの物質の中にも見つけることはできない。言葉で言っても書いても、人に伝わるかどうか自信がもてない。人間は身体の底から孤独だ。現代人には、そういう感覚があるようです。

近代から現代にかけて、文学などにその気分がますます強く表現されるようになっている。現代哲学の始祖といわれる二十世紀前半の大哲学者も、人間を、「時間と運命と死にひれ伏す奴隷(一九〇三年 バートランド・ラッセル自由人の信仰』)」と表現しています。こういう現代人のニヒリズム的な世界観は、まじめに生きようという気持ちをくじけさせる。それは一方では犯罪やモラル低下など反社会的行動の下敷き、あるいは自殺や引きこもりに向かう抑うつ行動の背景として現れてきます。また他方では、人間の脳は生れつき、虚無で無意味なものには嫌悪感を持つようにできているらしく、虚無的な唯物的世界観への直感的な反発から、反科学、神秘主義、あるいは伝統宗教への回帰などの現象が高まってくる。このような現代の傾向を、マスコミなどに見られる慣用表現では、精神文化の危機とか退行、などと言うようですね。

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拝読ブログ:私がどれだけダメでも世界は続くのさ。

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私という理論

2007年10月17日 | x2私はなぜあるのか

人間が、「私は・・・」と言うとき、自分が感じる感覚や感情などすべてを含ませて言っている、と思い込んでいます。しかし他人がそれを聞くときは、ただそこでしゃべっている一つの人体でしかありません。それは物質だから、物質が何をどう感じているか考えても意味がありません。物質が物理法則に従って動いているだけと見れば、物質が何かを感じると思うのはおかしいわけです。

実際、そういうことが他人の立場になってみると分かります。他人から見れば自分はただの物質で、それが何かを感じているかどうかも怪しい。私としては確かにそういうことを感じているのですが、そういうこと全部を感じている私の内面というものは、他人の目には見えませんから、物質としては表れていません。他人の目や耳や手では感じられないでしょう。想像はしてくれるかもしれませんが、それも正確な私の内面ではないでしょう。他人にきちんと感じられないということは、この物質世界にはそれはないということです。だからこの自分の内面というものは、この世にはない何ものか、つまり脳の中で、(心と同じように想像から作られた)理論による錯覚でしかない。そう言ってみても、そう思う気持ちそのものもこの物質世界にはありそうにない。それで、人間は「私は・・・」と言うとき、虚しさを感じることがあります。私という理論は、考えれば考えるほど虚しい。そこで哲学などをするとますます混乱して、虚しさは増すばかりとなります。

「すべてを含む集合は自分自身をも含むから、その集合は自分自身の一部分にすぎない」というような数学のパラドックスに似ていますね。

私が内面としての私と思っているような私は、この世には存在しません。他人が私と思っているような外面の私しか、この世には存在しない。そしてそういう外面の私、つまり私だと他人が認める物質としての私の人体は、原理的にはいくらでもコピーが作れる。他人にとっては、コピーはまったく区別がつかない。私にだけ、私はこの一つの身体だけだ、と分かるのです。つまり、私というのは他人の目に見えるこの身体だ、と思うことは間違いです。

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拝読ブログ:ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2) : 多値論理

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同じ物質構造の人体

2007年10月16日 | x2私はなぜあるのか

Geromejeanleon_2 科学を駆使して、この物質世界がどうなっているかということをいくら調べても、どの物質が私の感じているすべてを感じているのか、分かるわけはありません。

客観的物質世界の一部である、この私ということになっている人体は、感じられるもの全部の中の小さな一部分に過ぎない。客観的に見れば、世界の他のどの一部分と比べても特別ということはない。それこそ、私と同じ物質構造の人体を百個作って並べた場合、私以外の人間にとっては、どれもまったく区別はできないのです。

この物質世界を私が感じているということは、私の脳がそれを映し出しているということです。だからこの物質世界にあるこの私らしい肉体は、私の脳の中に映し出されている物質世界という模型の中に作りこまれている一個の人体の模型でしかない。模型は錯覚を組み合わせて作られている。私というものは錯覚の組み合わせでできている。そういうものを実物と思い込んで混同すれば、そこから先の話が混乱するのはしかたないでしょうね。

拝読ブログ:人体?脳?の不思議

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人体コピー

2007年10月15日 | x2私はなぜあるのか

物質世界がすべてだと思えば、この他人の目に見えているただの物質としての私、ただの人体としての私があるだけ、と思うしかない。ただの物質であるふつうの人体が物質を超越した神秘的な何かを内蔵しているはずがない。物質である私は、物質の法則に従って動いているだけです。

空気の分子が衝突しあって風が吹くように、人体も脳も動いている。その状態変化が今の私が感じていることを決めている。いずれにしろ、脳の状態も物質の法則だけで変化していく。それが私の脳だからといって、何も特別なことはありません。私の脳であろうとも他人の脳であろうとも、まったく同じことです。

どの人体もこの物質世界の単なる一部分です。原理的には、原子や分子がこれとほとんど同じように組み合わさった人体のコピーを作ることもできる。 あなたのその人体とそっくりのコピーを作ったら、彼、または彼女もあなたなのですか? 身体の傷も脳内の記憶状態もそっくりコピーされていたら、その人体も二つ目のあなたなのですか? 他人が見たら、どちらをあなたと思って付き合っても問題はありません。というより、あなた以外の人にとっては、どちらも間違いなくあなたです。それはむしろ、一つだけでないと混乱して困ります。

ではそこに完璧なコピーを一つ作りましたから、元の人体であるこちらのあなたのほうは廃棄処分にしてかまいませんね?

ちょっと待ってくれ! と言いたくなりませんか?

拝読ブログ:クローン人間について

拝読ブログ:自我がコモディティ化する世界

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アメリカナイズされた私

2007年10月13日 | x2私はなぜあるのか

筆者などは、アメリカナイズされた現代日本文明にしっかり染まっていますから、明日の自分はどうなるのか、そうなったら自分がどう得するか損するか、社会的に経済的にちゃんとやっていけるのか、それで妻と子の明日は大丈夫か、というようなことばかりを考えて毎日を過ごしてきました。頭の片隅では「そういう発想自体、現代人特有の間違いじゃないか」と疑いつつも他に良い悟りも浮かばなかったので、そのまま漫然と、自分のことばかり考えて人生を過ごしてきました。今、人生の終りに近づき改めて世の中を観察するに、現代の日本は若い頃の筆者のような、いやそれよりさらに徹底した自分ひとりの幸福だけを追求する狭い人生観がますます蔓延しているように見えるのですが、年寄りの思い過ごしでしょうか?

こういう筆者のような西洋文明型の人間は、何事に関しても常に自分にとっての利害を計算し、自分の行動のすべては「私」の利益のためになされるべきだ、と思い込むような思考方法になっています。私はどうなるの、私はどうなるの、ということばかり考えている。そうなると、行動に迷うときなどに、「そもそも私って何?」という疑問が出てくるようになる。「自分探し」とか「ほんとうの私」とかなどという意味がない言葉に惹かれてしまう。この現象を高尚なことと思い込むと、哲学の難問を考えているような気になってしまうわけです。

 しかし、さらによくよく考えると、これは高尚なことでも難しいことでもありません。存在しない錯覚を存在するはずだ、と思い込むことからすべてが難しく見えてしまう。「私って何?」という疑問を、まともな疑問だと思うのは間違いなのです。

拝読ブログ:超初心者のための日本人向けアメリカナイズ講座

拝読ブログ:一般的な自分探しの方法

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