私は私が世界の中心だ、と感じたりもする。私は私を何よりも大切にしている。私は私の幸福を少しでも増やすために毎日、すべての情熱と努力をつぎ込んでいる。私は、少なくとも私にとっては他のどの人間とも違って特別に重要な人間だ。と人間はだれもが思っています。
けれどもその感覚は、この物質世界のどこにも根拠がない。この物質世界では、私は一個の、人の形をした物質だというだけで、世界の中心でもないしむろん特別に重要でもない。物質であれば、原理的にはいくらでもコピーが作れます。そこら中にあるふつうの物質と違いはない。私が何を思おうと、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んでも、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んだ次の日も株式市場は今日と同じように活発だろうし、今から一万年後でも地球自転の角運動量は変化せず、そのために毎朝必ず太陽は東から昇るに違いない。そういうことはよく分っていても、ほんのちょっと、何か割り切れない感じがある。人間は、皆こういう感じを抱いて生きています。
私が感じている私のこの気持ちは、他人の目にも見えるこの物質世界の中をいくら探しても実は見つからない。それが空しい、というか、すこしさびしい。その空しさもそのさびしさも、どの物質の中にも見つけることはできない。言葉で言っても書いても、人に伝わるかどうか自信がもてない。人間は身体の底から孤独だ。現代人には、そういう感覚があるようです。
近代から現代にかけて、文学などにその気分がますます強く表現されるようになっている。現代哲学の始祖といわれる二十世紀前半の大哲学者も、人間を、「時間と運命と死にひれ伏す奴隷(一九〇三年 バートランド・ラッセル『自由人の信仰』)」と表現しています。こういう現代人のニヒリズム的な世界観は、まじめに生きようという気持ちをくじけさせる。それは一方では犯罪やモラル低下など反社会的行動の下敷き、あるいは自殺や引きこもりに向かう抑うつ行動の背景として現れてきます。また他方では、人間の脳は生れつき、虚無で無意味なものには嫌悪感を持つようにできているらしく、虚無的な唯物的世界観への直感的な反発から、反科学、神秘主義、あるいは伝統宗教への回帰などの現象が高まってくる。このような現代の傾向を、マスコミなどに見られる慣用表現では、精神文化の危機とか退行、などと言うようですね。
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