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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

世界モデルの相互干渉

2007年10月23日 | x2私はなぜあるのか

遠くにいた他人が近寄ってきて自分に視線を向けると、幼児はただの物体が動いたのを見た場合と違う何かを感じて、見返す。人間は、自分を見つめる視線に対して脳の辺縁系の深いところで鋭敏に感情を伴う知覚(まなざし感)が生じ、反射的に相手の目を見返す神経機構を持っているようです。猫なども人間の目を見返したりしますから、視線を感知するこの機構は哺乳類共通の古い脳にあるのでしょう。こちらを見ている視線を感知するこの神経機構は、人間の幼児においても客観的世界モデルを使う以前から働いているようです。ただし、見られている自分というものを感知する、つまり見つめられ感、まなざし感を自意識にむすびつけて感じる機構はまた別の神経回路の働きによると思われます。(拙稿の見解では)自意識を生じるこちらの神経機構は客観的世界モデルの完成後に、それを下敷きにして作られるようです。

三歳くらいの幼児は、相手の視線が見るものを追従して見ようとして、それが自分の身体に向けられたものであることを発見する。このときすでに、幼児は相手に憑依できるようになって、相手の目で世界を見る客観的世界モデルを使うようになり、視線を向けた相手の目の後ろ側に自分が入り込んで、想像の目で、自分の身体を見ることができるようになる。

その場合、相手に憑依している自分が見つめる人体は、いつも自分中心モデルで使っている原点の人体に対応したものであることに気づく。ここで、幼児は戸惑って、見返しを止めて視線を外したりする。無関係として扱ってきた二つのモデル、自分中心世界モデルと客観的世界モデルとが干渉しそうになって、混乱してしまうのでしょう。

拝読ブログ:人間社会

拝読ブログ:自己中心的な世界。

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半客観的世界

2007年10月22日 | x2私はなぜあるのか

Geromejeanleonrepublic この客観的世界のモデルは、遠くのほうから、自分を含む大きな舞台を観客の視点でながめて感じられるようなモデルです。自分はこのとき、脇役の一人に過ぎない。これはテレビを見ているようなイメージですが、テレビゲームよりもテレビドラマに似ている。カメラが主人公の視線ではなく、遠くへ引いて他人の視線になり、さらに引いて空からの鳥瞰になっていく。仲間も自分も人間の群れの一員に過ぎないとみなす。他人と自分の区別は意味がありません。いくつかの人体が集団として群れて動いている、というだけです。

子供が客観的世界モデルを使えるようになるのは、二歳から三歳くらいの成長段階のようです。私たちが思い出せる幼児期の記憶は、ちょうどこれ以降でしょう。自分中心モデルでは自分というものは感知の対象になっていませんから、自分の行動は記憶できない。自分の行動を記憶するためには、自分の身体を物質世界の一部分として外側から見つめる客観的世界モデルが必要なのです。

はじめは、この世界モデルは自分のそばで動いている人々を観察して、その運動を追従するために作られるのでしょう。人の運動を目で追い、自分の身体を同じように動かそうとする。幼児は、この場合、実際に身体を動かして他人の運動を捉えていく。成長するにつれて、だんだんと、目で見るだけで身体を動かさなくても、脳内の運動形成回路が人の運動をなぞっていけるようになる。このような神経機構は類人猿も持っているようです

このとき、幼児が新しく作り始める客観的世界の中には、はじめ自分は入っていない。他人の動きを記憶し予測できるようになるだけで、自分の動きは見えていません。その意味では、幼児におけるこの過渡期の世界把握は半客観的世界というべきでしょうか(人間の視点からは成長過程の過渡段階でも類人猿などではここで完成段階)。

拝読ブログ:岸田秀『唯幻論物語』書評補論

拝読ブログ:ベイズの定理(ベイズのていり, Bayes' theorem

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憑依→現実世界

2007年10月21日 | x2私はなぜあるのか

ところが今から数十万年前くらいから、現生人類は複雑な集団社会を作るようになった。役割分担のある狩猟をするようになり、また物々交換や住居建設などをはじめる。すると、洗練された社会的行動が必要になる。複雑な人間関係がある社会の中では、自分中心モデルを使って、目の前の現象に身体を反射的に反応させるだけではうまく生きていけない。自分の行動を他人の視線で見直したり、他人や自分の行動を客観的に記憶したり、これからの自分のあり方を予測したりすることが、生活上の利益につながってきます。

こういう生活になると、自分中心モデルよりもっと客観的なモデル、仲間と同じ視点で世界を客観的に見る見方、さらに他人の目で自分を一個の人体という物質とみなす見方を持つ必要が出てきた。つまり客観的物質世界のモデルを使って、複雑な人間関係や物質の法則を理解することが必要になってくる。それでたぶん二十万年前くらいから、現生人類ホモサピエンスは脳の中に客観的物質世界のモデルを作るようになり、徐々に、それを発展させたのです。この脳の機構は、おそらく動物が仲間の運動に同調して群行動をする古い神経回路から進化したものでしょう。仲間の運動をなぞるために視覚と対応する人体運動の精密なモデルが脳内に作られたのではないか、と思われます。

人間が、目や耳で仲間の人間の身体の運動を感じ取ると、自分がその人の内部に入って運動しているような感覚と感情が起こる。この感覚は、自動的に仲間の運動への追従運動を発生する古い群行動用の神経回路から来る信号によって起こるものでしょう。この感覚を利用して人間は他人の心を感じ取ります。脳の中で他人に乗り移る、憑依(筆者独自の用語、既出)という神経機構です。脳の運動回路が、自動的に仲間の運動の知覚信号に共鳴し連動する。この運動の連動は仲間が感じている感覚の共鳴を伴う。つまり仲間が感じているはずの感覚に対応する神経活動が発生する。脳のこの仕組みによって、人間は仲間の視点から周りを見た光景を想像できる。同時に仲間の目に映っているはずの自分の姿と自分の運動を自分の感覚神経回路で感じ取れる。こうして、どの人間もが共通に目や耳で感じる客観的な物質世界の存在感を、直感で感じ取れるようになる。これを私たち人間は現実と感じる。このように存在感をともなって感じ取れる世界を、現実世界、あるいは客観的物質世界、略して客観的世界、ということにしましょう。

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自分中心モデル

2007年10月20日 | x2私はなぜあるのか

Geromejeanleonphyrinejpg 人間は運動を計画するとき、自分の身体を中心とする空間での身体の変形を脳内の運動形成回路を使ってシミュレーションで作り、それに対応した周辺環境の変化を予測する。たとえばジャンプすると塀の向こう側が見えるだろう、と予想してジャンプする、とかです。

私たち人間はこのように、いつも自分の運動が直接、世界を変化させ、世界の変化が直接、自分を変化させる、というシミュレーションモデルを運転しながら運動している。これが自分中心的な世界のモデルを作っている。生まれて間もない赤ちゃんのころから、人間は運動神経と感覚神経を使って、このような世界のモデルを作り出し、その中に生きています(二〇〇二年 ワン、スペルク『人間の空間表現:動物からの洞察』既出)。

大人も夢中でテレビゲームをしているときなどは、この自分中心モデルだけを使いこなして行動する。テレビゲームで遊ぶときは、まさにコンピュータの中に作られているこのモデルを脳内の同様のモデルでなぞりながら遊ぶわけです。身体を駆動する運動指令というアウトプットを送り出し、その結果として感覚というインプットを感受する。まさに自分が世界の中心にいて世界とやり取りを続けます。

この自分中心モデルは、人類が狩猟採集をしながら原始社会生活を営んでいくためには最適だった。狩猟採集の原始時代には、目の前の事態にすばやく対応することが重要で、長期の記憶や理論的な予測はあまり必要ではなかったでしょう。単純に自分の感情を運動に直結させて行動する。それに対して世界は単純に答えを返してくれる。こういう経験の中で、人類は数百万年も暮らしていました。

拝読ブログ:何処を基準に考えるか

拝読ブログ:Rindler 計量と「双子のパラドクス」

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脳の錯覚機構

2007年10月19日 | x2私はなぜあるのか

しかし筆者に言わせると、現代という時代に特に顕著なように思われる、このニヒリズム的な感じは主に錯覚からきています。

私のまわりは安心できる世界にとりまかれていて、世界は分かりやすく、いつも私の気持ちに応えてくれる。そうであるはずだ、そうあってほしい、という錯覚が私たち人間の中にあるからです。自分を包んでいる世界は、いつもしっかりと安定していて自分は安心して、いつもいつまでも、同じようにふるまっていれば無事に過ごしていけるはずだ。そうあってほしい。そうでない状況は嘘だ。認めてやりたくない。と、私たち人間は思う。そう思うようにできている。

いつの時代の人もどこの国の人も、そう感じていたし感じているようです。だれもがそう感じるということは、生れつきどの人間の脳にも、世界をそう感じるような錯覚の機構が備わっているということでしょう。

ではなぜ、そういう錯覚の仕組みを人間は持つのでしょうか? 

拙稿では、この問題を、人間が自分の運動を計画するために使っている二つの世界モデルの相互干渉として考えていきます。

拝読ブログ:あなたは絶対!守られている

拝読ブログ:世界は主観的な観念で支配されている、あるいは客観的なるものなど存在しない

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