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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

身体内部⇔身体外部

2007年10月28日 | x2私はなぜあるのか

Geromeslavemarket 客観的世界モデルのほうは、物質に注目する場面で使う感覚神経系、つまり視覚と聴覚、触覚から構成されている。物質に向けられるこれらの感覚は、他人と共感できる。視覚、聴覚、触覚は、身体の外側にある物質の動きを把握するために発達した感覚システムなので、信号伝達経路も身体の内部感覚とは別になっている。実際、客観的世界モデルは、脳幹や辺縁系に生ずる身体感覚や内部感覚、感情などの情報は使わずに、身体の外側の世界を客観的に表わす情報だけから作られるモデルとなっている。

客観的世界モデルは、身体内部のことはうまく表せない代わりに、身体外部の物体の運動や変化を表わす場合には完璧です。身体の外側の情報を感知する感覚器官(視覚、聴覚、触覚)を使って、大脳皮質と小脳を使う運動予測シミュレーションを働かせる。過去の整然とした記憶や長期的な将来の予測ができるようになる。実際、この世界モデルは運動の記憶、社会機能、言語機能などの土台になっています。

拙稿の見解では、人間が他人と会話をするときはこの客観的世界モデルを主に使う。そうしないと整然とした分かりやすい話はできません。言語はこの客観的世界モデルを下敷きにして発展した。哲学や科学をするときは、もちろんこのモデルの上で言葉を使っているわけです。

一方、たとえば痛みや恐怖で取り乱して赤子のように泣き叫んだりするときは、自分中心モデルを使っている。こういうときの自分中心的な感情などは、長期的に整然と記憶して適時に想起することがむずかしい。自分中心モデルを使っているときは、たぶん大脳皮質でのシミュレーションをあまり活用していないので、客観的物質世界で使われる運動のイメージや言語につながらず、連想しやすい形で記憶することがむずかしいのでしょう。

拝読ブログ:自己意識の脳

拝読ブログ:微妙な感覚。

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自分と世界の関係

2007年10月27日 | x2私はなぜあるのか

拙稿の見解によれば、この二つの世界モデルは、同じ世界を表しているものではない。私たち人間は、二つの異なる世界を感じながらも、それらをすぐに重ね合わせてしまうために一つのものと思い込んでいる。なぜそうなのか? それを調べてみましょう。

一般に霊長類は、たぶん生まれてすぐ、赤ちゃんのころに(脳の基底の部分で)自分中心世界モデルが完成するようです。人間の場合は、その後二歳くらいで(たぶん帯状回・前頭葉を使う)他人への憑依機構ができる。憑依機構を使って他人の視点に自由に移動することで、自分中心モデルとは別の環境認識システムとして、客観的世界モデルが作られるのでしょう。

客観的世界モデルを使うと、自分中心モデルではあんなに強く感じられた安心感とか不安感とか、生々しい感覚や感情が、あまり感じられない。物体の手触りや、重さや、匂いや、温かみが、はっきり感じられない。一方、時間空間の中で目に見える物体の運動ははっきり分かります。物質がどう動いていくか、周りの環境はどう変わっていくか、はっきり予測できる。その記憶もはっきりしている。この二つの世界モデルの働きは、このように明らかに違うものです。私たちはいつもそれらを同一視するから混乱が起こり、自分と世界の関係に関する(心身問題など存在論的な)違和感がでてくる。

拝読ブログ:人生日々礼讃: 脳は物質だから意識は必然にすぎない

拝読ブログ:「げんじつ荘」その3

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世界モデルの切り替え

2007年10月26日 | x2私はなぜあるのか

Geromele_marche_aux_esclaves 自分が世界の半分以上を占める自分中心の世界モデルと、自分が限りなく小さくなる客観的世界モデル。このふたつの世界モデルを同時に使いこなして、私たち人間は行動している。正確にいえば同時ではなくて、二つのモデルシステムを瞬時に切り替えながら使っています。

テレビゲームとテレビドラマを切り替えながら、楽しんでいるようなものでしょう。(テレビゲームで遊ぶときのような)自分中心モデルを運転するときは、たぶん、側坐核大脳皮質頭頂葉小脳を良く使うらしい。また、(テレビドラマを見るときのような)客観的世界モデルの運転には、帯状回前頭葉、小脳を使うようです。(拙稿の見解では)脳の違う部分を使うこれらふたつの計算システムは、ひとつのコンピュータの違うアプリケーションソフトのように、お互いが知っていることを知り合うことはない。互いを無視して、それぞれ独自に、世界の動きを予測計算している。両方のシステムの計算結果は、それぞれ別の信号として脳の扁桃体海馬など辺縁系の神経システムに送られる。そこで視覚聴覚などからの入力信号と統合され、統一した存在感を作り出します。

ふつう人間はこの二つの世界モデルの切り替えを意識しない。うまく重なり合っていて、滑らかに繋がっているように感じます。つまりこの二つのモデルは同じ現実だ、と人間は感じるようにできています。自分の外側に間違いなく実在している唯一の現実世界を自分は感じているのだ、と私たちは思っている。

しかし、それは錯覚です。

拝読ブログ:データベースとしての脳

拝読ブログ:意識の諸相2

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言語の基盤は物質世界

2007年10月25日 | x2私はなぜあるのか

自己中心的世界モデルとは違い、客観的世界モデルでは、自分の運動が直接、世界を変形させて感覚信号を変化させる、という現象は、はっきりとは表れません。自分の運動の結果よりも、むしろ他人の運動の結果が、はっきりと表れる。他人同士の力関係、他人の間の運動、気象など自然の力、物質の変化、などなどダイナミックに変化する複雑な大きな世界を自分はあまり動かずに観察している、と感じられる。

客観的世界モデルは、自分の内面が表に出ない世界のモデルです。自分も他人も、人間はみな同じように、外面だけしか見えない。外面を見て内面を想像するしかない。そういう世界のモデルです。このモデルでは、世界は物質からできていて、物質の法則だけで動いている。科学は、この世界モデルを土台にして作られている。科学の土台になっていること以前に大事なことは、このような客観的世界モデルを使うことで、人間は仲間と世界を共有することができることです。他人も自分も、間違いなく、同じ世界を見ていると感じられるからです。

そうなれば、他人と共有できるその世界は、客観的に存在すると感じることができるようになる。ふつう私たちは、この物質世界を見渡すとき、強烈な存在感、現実感を感じる。この物質たちを見ながら会話すれば、間違いなく話が通じる。拙稿の見解では、それが言語の基盤になります。そうであるとすれば、子供が成長して他人とうまく会話できるようになるためには、客観的世界モデルをきちんと身に着けなければなりません。

拝読ブログ:個人の同一性と他者性の問題

拝読ブログ:言語の基盤-脳・意味・文法・進化

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言語と社会の発生基礎

2007年10月24日 | x2私はなぜあるのか

Geromejeanleonserpentcharmer こういう経験、つまり他人に憑依し自分を見つめる他人の視線の内部に入り込んで他人の目で人体としての自分を見ることで、幼児は客観的世界における自分、というモデルを獲得していきます。

ちなみに筆者はこういう場合、憑依という独自の言葉を使うことにしていますが、このような発想の自我理論はもちろん筆者の独創ではありません(古典発達心理学における「鏡像段階:鏡による自意識の発生{一九三六年 ジャック・ラカン}」という概念は、憑依の概念に類似)。現代心理学でも、自意識は他人の心を読むことから発生した、という理論が広く支持されています(一九七八年 ニコラス・ハンフリー『自然心理学者』)。

自分のこの人体は、他人から見れば単に人間の一人としか見えないはずだ。だから自分も周りの人間と同じように動く仕組みを持っているはずだ。つまり自分が他人の動きを予測するときに他人の内面にあるものとして想像する、心とか感情、というものが、自分の人体の内部にもあって、それを予測することで自分自身のこれからの行動をも予測できるはずだ、と私たちは直感的に感じるわけです。

こうして(類人猿と違って人間の)幼児は、自分の身体を含む客観的世界モデルを完成していく。この客観的世界モデルを獲得するときの幼児の経験はその後、子供の社会、さらに大人の社会に入ったときの社会行動の基礎を作ります。

たとえば、幼児は、他人に憑依して、その人間になりきることができる。親兄弟や立派そうな先輩に憑依して、その動きを夢中になって真似し学習する。ままごとなど大人の真似をする。優れた人の真似をしてその能力を習得するという模倣機能は、他の動物に比べて、人間で特に顕著です。この機能によって、人類は道具や文化や言語を普及させ発展させることができた、と考えられます(二〇〇〇年 スーザン・ブラックモア『ミームマシーン』)。

憑依した他人の視点から自分を評価することで、自我の存在感を作っていく。その他人の視点から、さらに第二、第三の人物に憑依して乗り移っていくことで、人間を対象とする感情:愛情、憎悪、嫉妬、尊敬、軽蔑、などの感情を作る。憑依を使って個別の人間にこれらの社会的感情を貼り付けることは、人類が社会を構築していくための重要な建築材料になっています。

このように幼児が作る客観的世界モデルは、(拙稿の見解では)系統発生的には、言語、社会、という人類の新しい能力の基礎になっています。

拝読ブログ:自分が!

拝読ブログ:「ミーム」を疑う ―「利己的な遺伝子」③

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