goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

この世に神秘などない

2008年01月06日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_nymph 世界全体が神秘そのものではないのか? 科学はそれを解明できるのか? 科学は、本当に真実なのか? 科学では解明できない未知がいくつもある。むしろ、人間が一番知りたい生と死、苦しみと喜び、愛と憎しみの問題、あるいは美と醜、あるいは宇宙の究極の様相なども、科学は解明できていないではないか? 私たちはそう思う。そこに神秘を感じる感覚が入り込みます。そうすると、科学の描く物質世界も錯覚に過ぎないのではないか、という気もしてくるわけです。何もかも神秘だ、という相対的な言い方をしたくなる。

しかし、神秘感という感情も、それ自身は神秘的なものではありません。ホモサピエンスの脳が作り出す錯覚です。生存に有利な錯覚には違いありません。だから(拙稿の見解では)実は、この世に神秘などない。神秘を感じる人間の脳があるだけだ、ともいえます。

拝読サイト:日本人は世界一のブログ好き民族!

拝読サイト:700万年前は人もチンパンジーもゴリラも一緒だった

コメント

シンプルな理論が正しい

2008年01月05日 | x4それでも科学は存在するのか

いずれにせよ、私たちが生きているこの物質世界は科学が描くようにある、としか思えない。あるいは、科学が描くように存在する、と考えることが一番もっともらしい。現代科学はこの世界を説明できる最も単純で明快な理論だ、ということになります。それ以外の理論、経典、教義、主義、神話、伝説、空想科学等は、世界を説明しようとして、いろいろなことを言っています。しかし同じことをいろいろな言い方で説明できるなら一番シンプルな理論が正しいとすればよい、という考え(オッカムの剃刀、などという)を持ち込めば、この世では、間違いなく現代科学が正しい。

この世界全体は、私の脳の内部に映っている錯覚の虚像ではないのか? それとも、やはり実像か? どちらも正しいかもしれない。どちらの場合も、世界はまったく同じに見える。同じに感じられる。科学が描くとおりに見える。虚像か実像か? どちらが正しいか? 人間がそれを知る方法はありません。

さらに話を混乱させることは、人間の脳には神秘を感じ取る感覚がある、という事実です。大いなる未知に遭遇すると、私たち人間は立ち止まり、天を仰いで畏敬の感情に駆られるような身体を持っています。つまり脳にそういう機能を持った神経回路がある。脳がそう進化してきた。原始生活の中で、脳が神秘を感じ、未知を恐れ敬う感覚を備えていることが、生存と繁殖に有利だったのでしょう。真っ暗な森の中を、暗黒に神秘を感じず、恐れを知らずにずんずん進んでいく人間は、猛獣や毒蛇にかまれたりして子孫を残せなかったでしょう。適当に、未知を神秘と感じて怖がる脳を持つほうが、生存に有利なのです。

拝読サイト:オッカムの髭剃り

拝読サイト:もう春だ

コメント

人生>科学至上主義

2008年01月04日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_venusp だから、科学が人間にとってすべて、ということはありえない。これはだれでも分かる。つまり、人間が感じるものは物質だけではない、むしろ、命や心や自分や愛や憎しみ、というようなもののほうが断然、大きく感じる。それらに比べれば、科学などほんの片隅の小さな問題だ、とふつうの人々は思っています。科学者自身でさえも、科学が職業として自分の社会的な経済的なよりどころであるからこそ、科学に強い関心を持っている。科学至上主義の変人科学者もいないわけではないが、とても少ない。だれにとってもふつうは、自分の人生が先、科学は後だ、ということですからね。人間あっての科学、というわけです。ちなみに、科学の描く物質世界そのものについても、それを人間が感じるから論じることができる、というところに形而上学的な謎がある、と主張する現代哲学もあります(一九九九年 ピーター・ウンガー『物理的存在の神秘とクオリティの問題』)。

拝読サイト:英語2で...

拝読サイト:ビルゲイツも文系はクソだと

コメント

科学者のキャラ

2008年01月03日 | x4それでも科学は存在するのか

科学は、人間が感じることの一部分だけを使って、世界全体を表現してしまいました。人間の感覚のうちの主に視覚、空間の認知、時間の認知、そして数量の認知の機能だけを使って、ニュートンの時代に近代物理学がつくられた。その方法で科学全体が統一されました。そのほかの感覚は、科学から排除されています。芸術の美しさなどを論じても、科学では意味不明となります。コーヒーのおいしさも意味不明、となってしまう。コーヒーの化学成分が味覚信号に変換されて、脳の各神経回路が次々に信号処理をする。しかし、そのプロセスをいくら正確に記述しても、おいしさは全然感じられない。

私という存在も、個人というものも、人生も、心も、自我も、正義も、全部、科学的には意味不明ですね。ふつうの人が一番大事に思っているこういうことを、冷たく、意味不明だと切り捨てる。冷血で、無味乾燥で人間的でない。もっと言えば、非情で冷酷ないやな奴、という感じが科学にはあります。科学者はみんな、そういうキャラクターの持ち主だ、と思っている人は多い(実際はまったくそうではなく、親切で温情的な科学者が多い)。

拝読サイト:カフェ cafe

拝読サイト:最先端科学技術が及ぼす影響の大きさが見えてない

コメント

科学のニヒリズム

2008年01月02日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranachvenus5 閑話休題

科学はこうして、客観性にあやしさの含まれるあいまいなものを次々に排除して、どんどん議論の対象を減らしていった。世界のすべての問題は、時間と空間、原子、電子、素粒子、エネルギー、それらがどう組み合わさるか、だけの話になっていきます。

ふつう、議論の対象を減らしていくと、話はどんどん面白くなくなる。話題が狭くなって、興味を持つ人が少なくなります。そうだとすれば、科学が発達するほど、科学はつまらなくなって、科学者になりたい人は減るはずですね。ところがそうではなかった。近代科学、現代科学はその応用力で、人間の衣食住、医療、経済、娯楽など、毎日の生活のすべてにおいて必要不可欠なものになってしまったのです。科学(知識)は力である(scientia potentia est 既出))。これを素直に見れば、結局は科学が一番頼りになるものだった、ということになる。

物質に関することは、科学が圧倒的に分かっていて、コントロールできます。この世で目に見えることはすべて、科学にお任せすればよい。実際、お任せするしかありません。残りの問題は、目に見えない人間の気持ちです。人間は物質にしか興味がないわけではない。むしろ、物質でないもの、人間関係、スピリチュアルなもの、感情とか、正義とか、個人の尊厳などがずっと大事だと思っている。ところがそういうものは、科学の描く世界では無意味です。目に見えないからです。身近に科学者を知らないふつうの人々から見れば、そういう科学の態度は実に冷淡にみえる。科学は根本的に虚無と見える。ぞっとするようなニヒリズムを感じるわけです。

拝読サイト:科学者への質問

拝読サイト:小島とニーチェ

コメント