それらの神秘感は、私は確かに感じるけれども、客観的物質世界の中には見つけられない、というだけです。こういうものは、神秘ではない。物質は私がその存在を感じるものであるけれども、その逆ではない。私が存在を感じるものは、必ずしも物質だけではない。私が感じても物質的世界には見つからないものが、いくらあってもふしぎはない。むしろ、そっちのほうが圧倒的に大きい、という感じがします。そのことがふしぎだと思う人は、自分の脳が感じているこの物質世界が自分の感じるもののすべてを含んでいるはずだ、という間違った思い込みをしてしまっているからでしょう。私たちの脳は確かにこの世界の存在感を感じていますが、この世界にないものの存在感をも、むしろずっと多く感じている。
苦しみや喜びや、愛や憎しみ・・・命の躍動や人の心の温かさ・・・人間がそういうものを感じるのは、それがこの世に物質としてあるからではない。人間は、物質を感じるよりも、むしろ強く、多く、そういうものも感じるような身体を持っている。しかし、それらはこの物質世界の中にはない。それらは脳内の錯覚です。それらの錯覚を強く感じる脳の機能が、人類の生存に有利だったからです。その仕組みは、脳の微細な機構とそれをもたらした人類の進化の過程を詳しく調べることができるようになる時代がくれば、はっきり理解できるでしょう。
ですから、この世の中にも、この世の外にも、どこにも神秘はない。ただし人間の脳は錯覚の存在感と神秘感を感じる機構を持っている。だれもが神秘は感じる。神秘を感じる人類だけが生き残ってその子孫が私たち現生人類になったからです。
神秘を感じることは実用的だったのです。あるときは神秘を感じることで恐れを感じる。またあるときは神秘を感じることで安心を感じる。経験によってそれらの神秘感を使い分けて、そうして上手に生きてきました。だから私たち人間は、神秘を感じることで不安を感じるとその法則を知りたいと思い、法則のようなものを知ると安心できるところがある。だから神秘の話が大好きな人が多い。そうなるので、神秘を商売にしている人たちもいる。占い師ばかりでなく、科学者も含めておおかたの学者、言論人、著作者たち、あるいは最近のウェブライターたちは、多かれ少なかれ、人々が感じる好奇心と神秘感を商売ネタのひとつにしています。よく売れるからですね。
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