家を出なくても世の中を知っていることはできる。窓から覗かなくても空があることは分かる。むしろ遠くへ出かけるほど物事を理解することが少なくなる。聖人は何もしないことで何事もなすことができるのである。老子がそう言っています。
不出戸知天下不闚牖見天道其出彌遠其知彌少是以聖人不行而知不見而名不爲而成。(紀元前四世紀以降 老子「道徳経」)
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バラ
カント(一七二四年―一八〇四年)のように生まれた町(ケーニヒスベルグ)を一歩も出ないで(一六〇キロ以内なら出かけたとされるが)世界のことはすべて知っている、という生き方がよいのではないでしょうか?

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愛と憎しみをこえて、すべてがかけがえのない尊厳をもって輝いていく。
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諸葛孔明伝その虚と実(著:渡邊義浩)その1
昔の賢人はこう言っています。
吾生也有涯而知也無涯以有涯隨無涯殆已已而為知者殆而已矣為善無近名為惡無近刑緣督以為經可以保身可以全生可以養親可以盡年(紀元前三〇〇年頃「莊子・内篇・養生主篇」)
有限の人間の分際で、無限の未知を解き明かそうとすることは無謀で危ういのではないか?
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諸葛孔明伝その虚と実(著:渡邊義浩)その1
世界を発見していった探検家たちは、こういう仕方で未知の地を進んでいきました。
どこまでも未知を解明しようとして、奥へ奥へと進むべきであるのか?
どこまでも未知をつきつめてすべてを知り尽くそうとすることはよろしくないのではないか?こういう漠然とした疑問を、実は、私たち探検家ではないふつうの人たちは、持っているのではないでしょうか?

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