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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

この世はなぜあるのか―答

2007年06月10日 | 6この世はなぜあるのか

人間は、他人(人間仲間)に憑依することで、物質世界の客観的な存在感を仲間と共有できるからです。(拙稿の見解では)人類に特有の憑依機能が、客観性、そして客観的物質世界、というものを作り出しているのです。この憑依機能は、生まれつき人類の脳だけに備わっている機能です。大きな大脳新皮質(+精緻な小脳)の働きが不可欠なのでしょう。この憑依機能を使って人間は、この物質世界を、他人の視座から見通して認識できます。世界からの直接の感覚情報の変化と、他人に憑依することで感じられる他人の視座から予測される感覚情報の変化、それに記憶から再生する世界の印象を組み合わせて大脳皮質で構成する世界の像を脳の基底部で発生する存在感と結びつけ、人間は(拙稿の見解では)世界の客観的な存在を感知するという仕組みになっているようです。この仕組みが自動的に働くことで、人間は、この柿の木が自分の主観と関係なく「客観的に」存在している、と感じられます。人間以外の動物は、これができません。(拙稿の見解では)人間の脳のこの機能が、人間が現実と思っているこの物質世界の客観的存在の基礎です。しかし、残念ながらこのような考え方は、脳神経科学や人類学では明確には提起されていないようです。また哲学としては、この考え方は一種の心脳一元論ということになりますが、これに類する議論が多く語られるようになったのはつい最近のことです(古いほうでは、一九七〇年 ドナルド・デイヴィッドソン『心的事象(行為と事象)』など)

この脳機能のおかげで、人間は、目の前のこの世、つまりこの空間と時間でできた宇宙全体は自分の主観と関係なく客観的に存在する、と感じられる。この結果、人間は、いつも、客観的な物質世界とその内部にある自分の物質的身体の存在感を感じられる。言い換えれば、人間にとって、世界と自分が客観的に存在できるのです。

客観的に存在する空間と時間でできたこの世界の中に自分のこの身体が置かれている、という感じはここから来ています。逆に言えば、身体の周りに存在するように感じられるから、「この」世界と言うわけですね。

そして記憶と推測によって過去の世界も感じられる。予想と推測によって未来の世界も感じられます。それで、過去から未来にかけて変化しているこの世界で私のこの身体がどう変化してきたか、これからどう変化していくのか、という我が人生の問題の存在にも気がつくわけです。こうして、人間は、この世がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、「世界が存在するという理論」を身につけるのです。

この世はなぜあるのか、(拙稿の見解によれば)その答えがこれです。

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脳の運動生成法則に対応する変動構造=人体

2007年06月09日 | 6この世はなぜあるのか

Collier4__the_land_baby 人間の脳は、他人も自分も、どの人間の身体も、それらしいその動きを見た瞬間にまずは自分の身体であるかのように感じるのです。正確にいえば、自分であるかのようにというよりも、自分であるか他人であるかの区別がなく、脳の運動生成法則に対応する変動構造、つまり人体、と感じます。ここまでは、たぶん、古くからある哺乳類共通の脳の基底部が働くのでしょう。次に、たぶん大脳新皮質で、個々の人間の違いが区別できて、その人体は自分ではない、とか、自分だとか、だれそれだ、とか感じるようになっているようです。

目や耳を使って他人の運動計画を予測する脳の機能を「憑依機能」と筆者は呼んでいますが、この機能を持つ脳は言語のようなものを獲得できるはずですから、言語能力を持たない猿には憑依の機能はないはずです。猿は他人(他猿?)の心に乗り移ったような気になることはないはずです。猿は自分の感覚しか感じられません。他人(他猿)の感覚は感じられないのです(類人猿{ヒト科}にはこの機能の原初的なものはあるかもしれないので類人猿学の今後の研究が期待されます)。だから猿(少なくとも類人猿以外の猿)にとっては、他猿と共有できる客観的世界はありません。猿にとっては、自分の空腹感も、目の前の柿の木の存在感も、同じように主観的なものです。ところが人間にとっては、前者は主観的にしか存在しませんが、後者は客観的に存在します。

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自分は他人の応用で作る

2007年06月08日 | 6この世はなぜあるのか

自分の心は自分が一番よく分かる、と私たちは自信を持っていますが、拙稿の見解が正しいとすれば、それは間違いです。私の心は私以外の人のほうがよく分かるはずです。それは私が内省力のない未熟な人間であるからということではなくて、人間はだれもが、自分の心よりも他人の心のほうが先に分かるのです。

私たちは、赤ちゃんのころ、まず目や耳の感覚情報とその記憶だけから他人の運動が予測できるようになり、それによって人の内部状態を感じられるようになる。つまり、人の心が分かるようになります。次に、それと同じ方法を自分に応用することを(幼児のころに)覚える結果、目で見えて同時に体性感覚で感知できる自分の身体の変化とその記憶から想像して、自分の心の中(の一部分)が、分かるわけです(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ意識経験対意識思考』)。他人が先、自分は後、です。他人を真似て、自分というものが作られるわけですね。これは、人類特有のかなり高度な神経機構です。人類以外の動物は仲間どうしであっても、他人(他動物?)の心など、分かりはしないでしょう。

人類のこの能力は、群棲動物共通の仲間との(ミラーニューロンなどを使う)運動共鳴の神経機構、から進化したものなのでしょう。しかし、他人をひとりひとり識別して、その内面の心、つまり脳内の感覚状態や運動計画までをはっきり予測し、それを記憶する機能は、人類特有のものでしょう。この機能は、大きな大脳皮質と高機能の小脳を使って目で見える仲間の人間の一瞬の表情を読み取り、微妙な動きを予測する(人類特有の)高性能の神経活動からきているからです。高性能のビデオカメラとコンピュータを備えたロボットでも、瞬間的にこれをするのは、現代の技術水準では、まだまだ無理です。

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内観などナインカな?

2007年06月07日 | 6この世はなぜあるのか

こういう感じ方から、「自分は自分の肉体とは別に存在しているもの(精神とか魂のようなもの)であって、自分の肉体が死んでも、自分自身はもしかしたら存在し続けるかもしれない」というような幻想もでてくるのです(二〇〇四年 ピーター・カルーサーズ『心の実態』)。科学がよって立つところの唯物論的世界観では、こういう感じ方自体を一笑に付すわけですが、拙稿の考えではそうするべきではありません。

拙稿の考えでは、「自分の肉体だと自分が思っている物質は、自分そのものとはちょっと違う」という違和感は大事なところです。この感覚は、私たちが自分の肉体を他人の肉体と同じ物質に過ぎないと思っていることの裏返しなのです。

人間は、仲間の人間の身体を見て、それを手本にして自分の身体の感覚を把握しています。無意識のうちには、自分の動きよりも先に仲間の動きが分かります。そのことから(世の中の常識とは違いますが)拙稿の見解では、人間は、自分の心の中が分かるよりも前に、周りに見える仲間の人間の心の中が分かってしまう、と考えます。私たちの毎日の経験でも、目の前の人の心の動きは、目と耳をふつうに使うだけで簡単に分かりますね。その表情や動作を目で見て、また発声や動作で出す音を耳で聞いて、私たちはごく簡単に、どの人間の心の中でも一瞬にして分かるのです。脳のそのしくみで、まず他人の心が分かり、次に、それを応用して自分の心が分かるわけです。逆に言えば、それ以外に、他人についても自分についても、心が分かるということはありません。私たちは、そのようにして分かるものを、心、といっているわけです。人間は、テレパシーを使えるわけではありませんから、目と耳だけですべてを理解するのです。

拙稿の見解によれば、人間は自分自身の心も、(内観とか自覚などという神秘的な感覚を使ってではなくて)自分の運動形成とその結果予測に対して目と耳と皮膚感覚と、筋肉や関節や内臓の体性感覚(目をつぶったときに自分の身体を感じる感覚)からくる信号の変化とその記憶だけから(他人の心を理解するときと同じように)理解していると考えられます。拙稿独特のこの仮説は、内観による自意識の存在を当然の前提としている現代人の常識とも現代心理学の理論とも違いますが、昨今の脳神経科学や認知科学の急速な発展に期待すれば、(筆者の楽観的予想では)この問題についてもいずれは実験観察で検証できるようになるでしょう。

拝読ブログ:条件反射と高次機能

拝読ブログ:夏目漱石『三四郎』 

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ミラーニューロン→憑依機能

2007年06月06日 | 6この世はなぜあるのか

目の前の物質の存在感、そしてそこから引き出されてくる世界全体の存在感。目や耳を働かすときの私たちのこのような感じ方、言い換えれば、このような現実世界の成り立ち方は、(拙稿の見解によれば)人間の脳神経系が持つ独特な憑依機能(筆者の造語)に根ざしています。

 憑依とは、「狐が憑く」という表現があるように、他人の内部に、その人物の外部から乗り移ることです。その人物の身体を乗っ取る、というような言い方もあります。狐つきのような化け物話とか、幻想小説、SFなどにしか出てきません。現実にはありえない行為ですね。拙稿では、あえてこの言葉を使って、人間の脳の基本的な働きを表現することにしています。語感が良いとはいえないので、他によい言い方があれば交換したいのですが、今のところ、適当な言葉は思いつきません。

さて拙稿でいう憑依は、視覚聴覚からあるいは想像からイメージする他人の身体の動きを予測するために活動する脳の運動形成回路の働きを指します。人間の脳は、他人の人体を知覚すると同時に自動的に、自分の運動形成回路を使ってその動きを予測するようにできています(その働きをする神経細胞をミラーニューロンという)。

つまり、人間は脳の中で他人に乗り移れる、と言ってよいでしょう。他人の心を感じ取る、と言うのは、このことを指して言うわけですね。想像の上では、他人として生まれ変わることさえできるような気がします。むしろ、私という一人の人間は、実はどの人間にもなれる。あるいは、はじめからどの人間でもある、と考えてもよいのかもしれません。どの人間でもある私が、たまたまここにあるこの人体に入っていると思い込んでいるだけ、と感じることもできますね。昔の人は、こういう感覚から「憑依」という概念を思いついたのではないでしょうか。こういう見方をすれば、自分というのは、たまたま私が入っている人体のことだ、ということになりますね。

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