人間は、他人(人間仲間)に憑依することで、物質世界の客観的な存在感を仲間と共有できるからです。(拙稿の見解では)人類に特有の憑依機能が、客観性、そして客観的物質世界、というものを作り出しているのです。この憑依機能は、生まれつき人類の脳だけに備わっている機能です。大きな大脳新皮質(+精緻な小脳)の働きが不可欠なのでしょう。この憑依機能を使って人間は、この物質世界を、他人の視座から見通して認識できます。世界からの直接の感覚情報の変化と、他人に憑依することで感じられる他人の視座から予測される感覚情報の変化、それに記憶から再生する世界の印象を組み合わせて大脳皮質で構成する世界の像を脳の基底部で発生する存在感と結びつけ、人間は(拙稿の見解では)世界の客観的な存在を感知するという仕組みになっているようです。この仕組みが自動的に働くことで、人間は、この柿の木が自分の主観と関係なく「客観的に」存在している、と感じられます。人間以外の動物は、これができません。(拙稿の見解では)人間の脳のこの機能が、人間が現実と思っているこの物質世界の客観的存在の基礎です。しかし、残念ながらこのような考え方は、脳神経科学や人類学では明確には提起されていないようです。また哲学としては、この考え方は一種の心脳一元論ということになりますが、これに類する議論が多く語られるようになったのはつい最近のことです(古いほうでは、一九七〇年 ドナルド・デイヴィッドソン『心的事象(行為と事象)』など)
この脳機能のおかげで、人間は、目の前のこの世、つまりこの空間と時間でできた宇宙全体は自分の主観と関係なく客観的に存在する、と感じられる。この結果、人間は、いつも、客観的な物質世界とその内部にある自分の物質的身体の存在感を感じられる。言い換えれば、人間にとって、世界と自分が客観的に存在できるのです。
客観的に存在する空間と時間でできたこの世界の中に自分のこの身体が置かれている、という感じはここから来ています。逆に言えば、身体の周りに存在するように感じられるから、「この」世界と言うわけですね。
そして記憶と推測によって過去の世界も感じられる。予想と推測によって未来の世界も感じられます。それで、過去から未来にかけて変化しているこの世界で私のこの身体がどう変化してきたか、これからどう変化していくのか、という我が人生の問題の存在にも気がつくわけです。こうして、人間は、この世がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、「世界が存在するという理論」を身につけるのです。
この世はなぜあるのか、(拙稿の見解によれば)その答えがこれです。
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