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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

外部の物質と私の内面

2007年06月15日 | 6この世はなぜあるのか

この出発点を忘れてはいけませんよ。これを忘れて素朴に、世界が実在する、ということを出発点にすると、人生の深いところで間違えていきます。この物質世界がまず実在していて、それから、その中にある物質である人体のひとつが私だ、と思うところから間違いが生まれてきます。そこから真面目に考えれば考えるほど、不可思議な哲学的な謎の一群、たとえば宇宙とは何かという謎、自分自身という謎、死という謎、人生の目的という謎、神的存在という謎、などなどが次々と襲ってくる。それらは偽の謎です。世界が実在すると思うところから、それら偽の謎たちも実在することになってしまうのです。伝統的な西洋哲学というのは、こういう間違いにふりまわされてできあがっています。おもしろいことに東洋の哲学は、概して、物質の実在を西洋哲学ほど絶対的には捉えないからでしょうか、世界の実在という思い込みから生ずる間違いについても、比較的に深く落ち込まずにすんでいるようです。だからといって筆者は、東洋の知恵が西洋の論理よりも優れている、などと主張するつもりは、まったくありませんが。

西洋でも現代の哲学者は、さすがにこのことに気づきはじめましたが、つい最近のことです(たとえば一九七九年 リチャード・ローティ哲学と自然の鏡』)。

私たちの常識というものは、こうです。「私の外部に、物質としての世界が実在していて、それは私の考えや私の感じ方と関係なく存在している。一方、私の内部の私の考えや、私の感じ方は、私の外部に広がっている物質世界と関係なく私の内部で作られ内部にしかない」こういうふうに、私たちは思っていますね。しかし、これは間違いです。脳が作り出す錯覚です。実は、内部と外部は違う世界ではない。私の内部にあるように感じられる感覚や内観は、物質である私の脳神経系が周りの物質との情報のやり取りから生理的に作り出している神経活動という物質現象の反映でしょう? 同時に、私の脳という物質も含むそれら私自身の外部にあるように見える物質世界は私の脳の内部の働きでこのように作られているからこのように感じられるわけです。

こうして私たちには、外部の物質世界と自分の内面というものが共に存在しているように感じられるのです。しかし、両方とも、そう感じられるからそうであるらしい、ということではひとつのことです。ひとつのものが、ふたつにみえるわけですね。

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すべての出発点

2007年06月14日 | 6この世はなぜあるのか

Waterhouse1mermaid_1 目の前のこの物質世界は、どう見ても存在するとしか思えません。直感で存在感を感じますね。さらに、私が見ていないところまでも、感じないところまでも、この物質世界は私の周りにどこまでも連続して広がっているらしい。そういう物質の広がりの全体である宇宙というものも存在するらしい。そういうものにも、想像上ですが、存在感を感じられます。私が生まれる前から、そして私が死んでしまった後も、この世界は同じように存在するらしい、と思えます。また、私自身がどう感じるかとは関係なく、誰にとってもこの世界は同じように存在すると感じられるようです。だから、間違いなくこの物質世界は、このように存在するらしいのです。そうだとすると、私がこの物質世界をこう感じることはもっともだと理解できます。逆にそうでないとすると、私がなぜ物事をこういうふうに感じているのか、まったく理解できません。そして、それは私ばかりでなく、どんな人間でもそう思えるらしい、ということが分かります。

要するに、自分だけでなくどんな人間でもそう思っているはずだとだれもが思えるところから、この世が確かに存在している、と思えるわけです。

これがこの世の存在のしかたなのです。これ以外に、この世の存在のしかたがあるとは考えられませんね。これがすべての出発点です。

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運動の共鳴→言語

2007年06月13日 | 6この世はなぜあるのか

猿は、集団で暮らしてはいても、複雑な協力はできません。人間は、自分が置かれている世界を客観的に見ることができる。自分という一個の動物を、他人の目で客観的に見ることができる。この能力で、人類は強力な社会をつくり、地球生態系の王者になったのです。

世界の客観的な存在感は、(拙稿の見解によれば)言語の基礎にもなりました。客観的世界の認識と他人への憑依の機能を組み合わせて、人類は複雑な文法を持つ言語を開発したのです。

話し手は聞き手の目を見てから、次に第三者の動作に視線を走らせる。そして聞き手に何か発声する。こうして話し手は聞き手に、第三者の運動形成を伝達するのです。つまり、話し手は第三者の運動を見て感じ取ったその運動共鳴を、音声に変換して、聞き手の脳に伝え、聞き手の脳内で同じ運動共鳴を引き起こすことができます。

また、話し手は聞き手に向かって物質を指差して言葉を叫ぶ。物質に対して何か運動を加えながら言葉を叫ぶ。それを見た相手の脳は、発話者の脳内の運動形成活動に共鳴するのです。そうして二人は物質世界での操作とその対象物を名付けていくことができるのです。

(拙稿の見解によれば)こうして、仲間どうし共鳴できる脳内の神経回路における運動形成活動の一つ一つに対応して、言葉が作られていきました。

 さらに人類は科学を作り出しました。物質の変化を観察して経験から規則性を見つけ出し、仮説を作ってその規則性を実験観察で検証します。これを熟練したプロ、科学者が科学者集団として組織的に、慎重に論理的にやると、科学ができあがるわけです。科学は、こうして作られた「確かに存在しているらしい」世界の模型です。自分が見えないところまで、宇宙から素粒子まで、理論を使って世界を広げることができます。一方、世界を広げるほど、直接的な身体感覚から直感で感じられる存在感は薄れてきます。それでも、科学は、身体感覚の存在感を基礎にして理論で作り上げた物質世界の、一番よくできた模型です。

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自分を含む客観的世界の存在感

2007年06月12日 | 6この世はなぜあるのか

この、人間に特有と思われる、世界の客観的な存在感を感じる、という脳の機構の獲得は、人類の能力を飛躍的に高めました。人間は、お互いに客観的世界という同じ村に、皆一緒に住んでいることを確信できるのです。脳のこの機構を使って人間は自分の行動の結果を予測できます。仲間の行動の結果も予測できます。この能力によって、原始時代から人間は、仲間と協力して、上手に狩猟採集生活をしてきました。物質世界の中での自分の身体の形と位置と動きがはっきりと分かる。人間集団の中での仲間と自分の関係がはっきり分かる。自分の立場、自分の役割が分かります。人類で大きく発達した大脳新皮質が、この機能を果たすのでしょう。

マンモスも上手に獲れるようになったでしょう。仲間がどう動くか、マンモスがどう動くかもよく分かるからです。マンモスの肉を平等に切り分けることもできる。勇敢に働いた仲間を誉めることもできる。ズルをして働きもないのに肉だけもらう奴を責めることもできる。仲間と自分の実績を覚えておくこともできる。協力を維持し、分業し、団結を強化できる。その結果、高い栄養を確保でき、極端に発育の遅い高度な脳を持つ幼児とその母親を扶養することができるようになったから、人類という動物種は繁殖し地球上に拡散したのです。

人類が他の動物に卓越するこのような能力を獲得した時期は、今から、四、五万年くらい前という推測が人類学ではなされています。人類の能力のこの大発展は、「大躍進」と名づけられています(一九九二年 ジェレッド・ダイアモンド第三のチンパンジー』)。この時代の遺跡から鋭利な石器の槍、骨の釣り針、装身具、壁画、埋葬などが短期間に出現したことが分かりました。この時期から、クロマニヨン人に代表される現生人類が、ネアンデルタール人など古い人類を駆逐して世界中に拡散し繁栄するようになったのです。この大躍進の原因について、この時期にはじめて言語が発生したから、とか、言語はあったが仮定法話法がこのとき発明されたから(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)とかの興味深い説が出されていますが、鶏が先か卵が先か、面白い。筆者が思い付いた仮説では、この時期に人類が、燻製や干物や容器など食料の貯蔵法を発明したから、つまり、自分の財産を主張することで他人の立場も分かるようになり、自分を含む客観的世界の存在感を獲得したから、というものです。まあしかし、そろそろ、こういういいかげんな仮説を言い散らかしている段階ではなく、真面目な実証的研究が待たれるところです。

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拝読ブログ:★四度目の氷河期 (著・荻原浩)

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犬が人間の死を理解するか

2007年06月11日 | 6この世はなぜあるのか

さて次には、動物の中で人間だけが、なぜそう進化したのか? 人間だけがこの世界をはっきりと客観的に感じられるように進化したのは、なぜか? という質問が、科学として問われるでしょう。

哺乳動物を観察すると、それらがかなりしっかりと、他の動物や動物以外の物体(特に食べ物)の動きや変化を、嗅覚や視線で追跡できることが分かります。視界から消えた後、ふたたび出現した物が消える前の特徴を再現する、ということを動物が予想できることも観察で確かめられます。忠犬ハチ公は、渋谷駅の改札口から夕方出てくるご主人を、朝別れたご主人の特徴を全部持っている人物として対応するのです。しかしハチ公は、夕方のご主人を朝別れたご主人と同一の存在だと思っているのでしょうか? 目の前のご主人がこの世に一人しか存在しないのだということを、理解しているのでしょうか? ハチ公は、ご主人が死んで存在をやめたことを理解できませんでした。人間ではないハチ公が、そもそも、個々の人間がこの世に存在しているということを理解できていたのでしょうか? この質問は、答がありません。というよりも、拙稿の考え方によれば、意味がない、というべきでしょう。自分がご主人をどう感じているか、誰かと話し合って共感することのできないハチ公は、ご主人の客観的な存在感を自覚することもできないからです。人間でないハチ公は、この世界の何者についても、その存在感を客観的には感じることはないのです。人間だけが、それをできるのです。ちなみに、現代の分析哲学者は、ギリシア神話の英雄オデュッセウスの愛犬アルゴスが二十年ぶりに帰館した主人をすぐに見分けたという古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア(BC八世紀頃 ホメーロス)』の逸話を例に挙げて、犬が存在の同一性を認知しているかという疑問を論じています(一九九六年 ダニエル・デネット『心の種類』)。

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拝読ブログ:宇宙時代のオデュッセイア『宇宙舟歌』

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