この出発点を忘れてはいけませんよ。これを忘れて素朴に、世界が実在する、ということを出発点にすると、人生の深いところで間違えていきます。この物質世界がまず実在していて、それから、その中にある物質である人体のひとつが私だ、と思うところから間違いが生まれてきます。そこから真面目に考えれば考えるほど、不可思議な哲学的な謎の一群、たとえば宇宙とは何かという謎、自分自身という謎、死という謎、人生の目的という謎、神的存在という謎、などなどが次々と襲ってくる。それらは偽の謎です。世界が実在すると思うところから、それら偽の謎たちも実在することになってしまうのです。伝統的な西洋哲学というのは、こういう間違いにふりまわされてできあがっています。おもしろいことに東洋の哲学は、概して、物質の実在を西洋哲学ほど絶対的には捉えないからでしょうか、世界の実在という思い込みから生ずる間違いについても、比較的に深く落ち込まずにすんでいるようです。だからといって筆者は、東洋の知恵が西洋の論理よりも優れている、などと主張するつもりは、まったくありませんが。
西洋でも現代の哲学者は、さすがにこのことに気づきはじめましたが、つい最近のことです(たとえば一九七九年 リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』)。
私たちの常識というものは、こうです。「私の外部に、物質としての世界が実在していて、それは私の考えや私の感じ方と関係なく存在している。一方、私の内部の私の考えや、私の感じ方は、私の外部に広がっている物質世界と関係なく私の内部で作られ内部にしかない」こういうふうに、私たちは思っていますね。しかし、これは間違いです。脳が作り出す錯覚です。実は、内部と外部は違う世界ではない。私の内部にあるように感じられる感覚や内観は、物質である私の脳神経系が周りの物質との情報のやり取りから生理的に作り出している神経活動という物質現象の反映でしょう? 同時に、私の脳という物質も含むそれら私自身の外部にあるように見える物質世界は私の脳の内部の働きでこのように作られているからこのように感じられるわけです。
こうして私たちには、外部の物質世界と自分の内面というものが共に存在しているように感じられるのです。しかし、両方とも、そう感じられるからそうであるらしい、ということではひとつのことです。ひとつのものが、ふたつにみえるわけですね。
拝読ブログ:哲学は時代時代の非常識