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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

物質はなぜ、こうなっているのか?

2007年06月20日 | 6この世はなぜあるのか

Waterhouse2circ この世界には、おいしそうな食べ物とまずそうな食べ物とがあります。火は熱く氷は冷たい。美しい人間と醜い人間とがいます。若い異性は美しい。骸骨は怖い。糞便は汚い。なぜでしょうか? 全部ただの物質なのに。

世界はなぜあるのか? 宇宙の、そして地球上のこれらの物質は、なぜ今あるようにこうなっているのか? この世界はそれを人間が感じて、しかるべく身体運動を発生し、経験を記憶して必要なときに思い出し、知識を蓄積し、その知識を利用してこれからの運動を計画し、上手に生き抜いて繁殖していくためにこうなっているのです。いや正確に言えば、世界がこうなっていると感じられるように人類の脳は進化してきたのです。

このように存在感があって、美しくて、心地よくて、あるいは気持ち悪くて、それぞれの形が何かを人間に語りかけている物質たち。それらがそうあるのは、人間の脳がそれら物質をそう感じ、その感じを記憶して学習し、必要なときに想起し、それを使って(おおかたは無意識に)将来を予測して生存繁殖に有利な運動を形成するようにできているからです。カロリーの高い食べ物はおいしい。身体を損なう温度は不快。交尾して優秀な子を作れる異性は美しい(かわいい?)。感染症の危険がある物質は臭く汚い。誰もがそう感じて、それに対応して身体を動かしていきます。お互いに毎日その感覚を言い交わし、人間はだれもがそうとしか感じないようになっています。

この世にあるもろもろの物質、それぞれの見かけ、それが与える感覚をそう感じて、じょうずに適当な運動を形成するように進化した人類だけが生き残りました。その子孫が我々だからです。

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リンゴはスパゲッティみたいだ

2007年06月19日 | 6この世はなぜあるのか

人類が滅亡してしまった地球上に異星人の探検隊が着陸して、周りの風景を眺めた場合はどうでしょうか? 異星人の感覚器官は地球人類のものとはだいぶ違うでしょう。目や耳や脳神経系にあたるようなものはあるでしょうが、その構造も機能もだいぶ違う。リンゴを眺めても、異星人の脳(にあたるもの)の回路に形成される情報は、地球人類の脳には形成されない情報を含んだり、逆に地球人類の脳には形成されるものを含まなかったりするでしょう。リンゴが丸いとは感じない代わりに、マイクロ波の吸収がよさそうだ、と感じるのかもしれません。

地球人なら「リンゴはボールみたいだね」「そうだね」という会話になるところが、異星人どうしだと「リンゴはスパゲッティみたいだね」「そうだね」と言う会話になるわけです。

人間が住んでいるこの世界は人類の身体にこのように感じられるものでしかない。たとえば、先に述べたように(拙稿の見解によれば)、身体移動量を積分する人間の脳神経系の機構から、三次元空間の概念が作られているわけです。つまり人類が滅亡してしまえば、私たちが感じているこのような空間と時間からなる世界が存在する、という言い方は意味不明になります。このような考えは、西洋でも近代哲学とともに現れています。近代観念論でも、人間の直感を通してしか時間空間を備えたこの世界は存在しない、といういわば形而上学の相対化が唱えられました(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判』第二版)。日本では、かなり古く中世頃から、無常観など、この世は相対的な存在と見る思想が多く見られますが、これも一種の相対的形而上学でしょう。

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異星人のロボット人間

2007年06月18日 | 6この世はなぜあるのか

では、科学はどういう地面の上に建設すべきであるか? これも現代哲学(科学哲学の分野)の面白いテーマですが、そこまでいくと拙稿がここで論じたいテーマからは離れていってしまうので、そちら(科学の土台)の理論に深入りすることは避けます。

さて、また本題に戻り、人間の感じる物質世界について考えていきます。将来、人類が全滅しても、もし仮に異星人が人類の身体の構成を調べて人間そっくりのロボットを作れば、それが感じる世界は今我々が感じている世界と同じでしょう。もちろん、人間と同じように人間の母親そっくりのロボットや仲間の人間そっくりロボットに囲まれて成長するようにセットされている場合です。逆に人類が全滅してしまって、人類の身体の構造に関するデータは全部消滅して、そういうロボットも作れないとすると、今私の目に見えるような世界は存在するとは言えません。 

人類が全滅して、その身体の構成のデータもなくなってしまった場合、「仮に人間がいれば世界をどう感じるのか?」という言い方は意味不明です。現在の私たちがそれを想像することはできますが、それは空想の話です。その空想の世界は、現在の私たちの脳の中にしかありません。

人類が滅亡してしまった地球上で、たまたまタイマーで起動された自動ピアノが演奏を始めるかもしれない。それはベートーベンのピアノソナタ八番かもしれません。それとも、君が代かもしれません。でも、どちらにしろ、誰も聞く人はいません。それは空気の振動でしかない。ベートーベンでもない。日本の国歌でもない。音楽だとはいえません。人間が出した楽器の音でさえもありません。そこには楽器の音はありません。空気の振動だけです。なぜなら、その空気の振動を人間が出した楽音と認める機構がないからです。それを君が代と認める機構、つまり人間の脳がまったくないところに、君が代は存在できません。歌を歌う動物がいないところに音楽は存在しません。耳を持つ動物がいないところに音というものは、まったく存在しないのです。そういうものが存在するということの意味がないからです。

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観察データと科学理論→過去の存在感

2007年06月17日 | 6この世はなぜあるのか

現代の人間は、地球に生物が発生する以前にも地球は存在したはずだと思っています。そのころ生物はいないのですから地球の存在を感じる人類は当然いなかった。だからそのときは、地球が存在するかどうかは問題ではなかった。意味不明だったのです。その後、人類が出現して、仲間どうしで地球の話をするようになったから、地球が存在するという意味がありうるようになったわけですね。さらに科学による理論的な推定によって、生物以前の時代の地球も宇宙も存在していたと思われるようになったわけです。

科学が推定するところによれば、宇宙が誕生し地球が誕生して、かくかくしかじかの地質学的変遷を経ていなければ、今の地球はこうなってはいないはずです。逆に言えば、推定された過去の存在は、現在の観察データと科学理論とによって決定されている、といえます。極論すれば、宇宙や地球の過去の歴史についての記述は、現在の私たちが感じ取っている観察データと科学理論を言い換えているだけだ、ともいえる。子供用の科学記事に添えられている恐竜のイラストを見るように、私たちは想像によって過去の世界の存在感を感じて、それが存在したのだと思い込んでいるだけだと考えることもできます。

拙稿のこのような考え方によれば、地球や宇宙や物質世界(いわゆる自然)の存在というものが人類の出現によってはじめて現れた、ということになります。人間がいなければ物は存在しない、ということにするわけです。常識とはかなりずれた考えですが、昔から哲学ではよく出てくる考え方です。

こういう考え方に対して、自然の現象の意味というものは、人間がいてもいなくても、現象と現象との因果関係によって決まるものだ、という現代哲学もあります(たとえば一九八八年 フレッド・ドレッケ行動の説明:原因の世界における理由』)。こちらの考えのほうが、拙稿の考えよりもふつうの常識に近い。たしかに人間とは関係なく自然現象の因果関係はあるわけですから、人類がいなくなっても、そういう意味で自然現象が存在するということの意味はあるといえます。科学はそこを根拠にした存在論の上に建設すべきだ、という主張の現代哲学もあります(二〇〇四年 バリー・スミス『概念を超えて:現実表現としての存在論』)。けれども、拙稿の見解では、そういう作り方をした存在論は、科学の土台を作るには役に立っても、人間が身体で感じる世界の感覚から離れていく。科学は科学として立派に成り立つかもしれないが、人間が感じる自分の内面の悩みとか日々の感情とかから、どんどん離れていきます。

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人類が全滅した後

2007年06月16日 | 6この世はなぜあるのか

私の内側のことは、後で詳しく論じることにして、まずここでは、私の外側にあるらしい物質世界のことを、あらためて考えてみましょう。

物質世界は確かに存在するように感じられるけれども、本当にそうかどうかは確かめようがない。確かかどうか、いかようにしても確かめられないこの世界を、人間は確かだと信じて生きているのです。それがそもそもの出発点でしょう。

私の脳神経系が、それが存在するように直感で感じるから、世界は存在するらしい。私以外の人間の脳も間違いなくそう感じるらしいから、世界はますます存在するらしい。

そこで拙稿では、ここのところをいちおう、「人間の誰もがそう感じているらしいということだけを理由にして、世界は存在する」という言い方に整理しておきましょう。

じゃあ、人類が全滅してもこの世界は存在するのか? 月や火星の上でも宇宙のどこでも、科学の法則は成り立つことが分かっていますから、人類がいなくても、科学法則が描くような物質の分布とその変化の過程は変わらずに存在するはずです。だからNASAの火星探査機が無人の火星表面で現在しているように、人類が全滅した後、誰もいなくなった地球で、自動機械が物質とエネルギーの変化を測定してデジタルメモリに刻々と書き込んでいくような仕掛けを残しておくことは可能です。あるいは自動ビデオカメラが、延々と人間のいない地球表面の風景を記録し続けることもできます。

筆者が二十二歳のとき(一九六九年七月)、アポロ十一号が月面に着陸しました。月の砂漠を宇宙飛行士が歩いている映像がテレビに映されました。月の砂は玄武岩の粉だという。月の物質も地球の物質とまったく同じ原子が同じ物理法則にしたがって結晶してできたものだということが、とても不思議な気がしました。その六年後に、バイキング無人探査機が火星の砂漠を撮影した画像を見ました。そのときはもっと不思議な気がしました。人間が誰も行ったことがない火星が地球と同じ物質でできていて、地球の砂漠とまったく同じような風景をしている。外国に行って日本語が通じる、というような不思議さを感じました。

しかし、宇宙機が送信してくるそれら月や火星の風景は、現地のビデオカメラが撮影しているだけでなく、映像を見てそれを感じている人間が地球に大勢いるわけです。ところが人間が全滅してしまっていたら、どうでしょうか? 火星のカメラが送ってきた画像データだけが地球でテレビ画面に再生されていても、それは光点の点滅でしかない。あるいはビット暗号の羅列でしかない。そのエネルギー変換あるいは画像形式の信号の意味を感じる人間はいない。それでも火星は存在するのだ、と言えますか? 世界を感じる人間がいないのに世界が存在することができるでしょうか?  世界を感じる、という言葉の意味がないときに、世界は存在できるのでしょうか?

「それを感じるということの意味がまったく不明なときにでも、それは存在する」という言い方はどういう意味でしょうか? この言い方自体、意味不明ではないでしょうか?

拝読ブログ:『やっぱり火星の空は青かった』?

拝読ブログ:ほんとうのところは…

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