goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実を感知する感覚器官

2011年06月27日 | xx5存在は理論なのか

拙稿の見解によれば、これら古典哲学から中世の神学を経て近代哲学に至る華々しかった形而上学的な論争は、残念ながら、恐竜のように滅亡してしまって今日に子孫を残していません。近代哲学が中心的な問題としていた存在論と認識論、観念論と経験論の論争なども、現在では化石のように過去の哲学史として残っているだけといえます。

これらの哲学論争は、はじめから現実世界の存在を大前提にしています。そうすると現実世界を感知する感覚器官のアウトプットは何か、などという問題が派生してくる。視覚とは何か?触覚とは何か?それらと現実世界との関係はどう考えればよいのか?視覚と触覚の統合は可能か不可能か?などの諸問題が出てきています。

拝読ブログ:思考(過去+未来)は、現実(今)を理解できない

拝読ブログ:『ソフィーの世界』ヨースタイン ゴルデル

コメント

近代認識論

2011年06月26日 | xx5存在は理論なのか

Almatadema_pyrrhics 西洋近代哲学の創成期(十七~十八世紀ころ)には、現実にあるこの世界を人間はなぜ目で見て認識できるのだろうか、という問題(近代認識論という)が提起されました。空間や物体はまず触覚で感知され、その後経験によって視覚で認知できるようになる(一七〇九年 ジョージ・バークリー『視覚新論』)とか、 空間や物体は生まれつき人間に備わっている幾何学の理解力にもとづくから視覚で認知できるようになるのだ(一七〇四年 ゴットフリード・ライプニッツ人知新論)とか、諸説が戦わされました。十八世紀啓蒙時代の西洋哲学は、人間の理性の働きを見事に整理しましたが、その前提は世界の実在であり、結論もまた世界の実在となっています(たとえば、 一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判既出)。

拝読ブログ:日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ

拝読ブログ:BodySpace

コメント

存在の薄さ

2011年06月25日 | xx5存在は理論なのか

近代(十七~十九世紀)から現代(二十~二十一世紀)へと西洋哲学が展開するにしたがって、哲学者たちが唱えるいろいろな概念は、私たちが日常使う言葉から離れていきます。近代以降は、特に世界の存在の意味合いが、古典哲学のいう存在の概念とかなり違ってきています。概していえば、世界はだんだん影が薄くなっている。近代から現代に近づくにつれて、すべての物事の存在感は薄くなってきている、拙稿の言い方を使えは、存在が存在する必要性は薄れてきている、人と人とが物事の存在を共有する必要が少なくなってきている、といえるでしょう。

拝読ブログ:夜空の散歩 読書の足跡5

拝読ブログ:迷宮案内人が欲しい

コメント

西洋古典哲学

2011年06月24日 | xx5存在は理論なのか

Almatadema_egyptian_chess_players 古代ギリシアから始まった西洋古典哲学でも、存在論、認識論、形而上学、という学問が体系的に作られてきました( BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出)。古典哲学でなされた存在に関する議論は、物事とは何か、物質とは何か、概念とは何か、という素朴な考え方を発展させたものです。その後この存在論は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神学の基礎となって現代人の世界観の下敷きを作っていると見ることもできます。したがって、これらの古い存在論は、現在私たちが日常的に使っている考え方とあまり違わないように見えます。

拝読ブログ:犬儒的( cynical)...

拝読ブログ:トニオ・クレエゲルに関する覚書

コメント

哲学が職業となる

2011年06月23日 | xx5存在は理論なのか

そういうような話は一般の人が考えてもしかたがない、宗教や哲学の専門家にお任せしておけばよい、とも思えます。しかし、哲学が職業としてなりたち、宗教が社会に認められて政治的にも経済的にも成立しているという事実は、そのような話が一部の人だけの関心事ではなく、だれにとっても、人生においてある程度重要な問題だと考えられているということでしょう。

拝読ブログ:「哲学者」、「文学者」ってどんな職業だ?もっと分からないのは「声楽家」だ。

拝読ブログ:哲学とともに、バカロレアが始まる。

コメント