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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

お化けはどう存在するか

2011年05月13日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_bride 物事が存在しているか存在していないか。それは私たちの身体がその物事が存在しているとして反応するか、それとも、存在していないとして反応するか、によって決まる、と(拙稿の見解によれば)いえます。

目の前にその物事が見える場合ばかりでなく、それを想像する場合も同じことです。想像する物事が存在するかしないかは、それを想像するときに私たちの身体がどう反応するかで決まる。お化けの話を聞いて、身体が硬くなって膝ががくがくして舌が乾いてきて逃げ出したくなったら、そのお化けは、身体をそういうふうに変化させるものとして、存在しているのです。

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身体変化から自覚

2011年05月12日 | xx5存在は理論なのか

たしかに目に入ってくる光が網膜に映す映像を感じて、私たちの身体がそういう変化を起こすのですが、私たちとしては、身体が変化した結果を感じることで自分が映像を見ていることを知る。(拙稿の見解によれば)映像が先ではなくて身体の変化が先です。身体が変化することでその物事の存在が分かる。そしてその存在を見ている自分に気が付く。それと同時に自分の目がその映像を見ているという自覚が湧き上がってきます。

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好き嫌い存在

2011年05月11日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_bbeethovenfries 無機的なものではなく、有機的なもの、生きているもの、特に身体があり顔がある動物や人間の存在は、より強く私たちの身体を変化させます。だれか人が私たちのそばにいる場合、私たちの身体は誰も人がいない時とは明らかに違う反応をしています。

よく知っている人の存在の影響はさらに強い。自律神経系などは、嫌いな人が近寄ってくれば緊張するし、親しい人と一緒にいるときは緊張がほぐれます。テレビを見ていても嫌いなアナウンサーやタレントがしゃべっているときはリラックスできない。好きな俳優の顔が出ると気分がよくなります。人のことを想像するだけでも違う。人が生きている場合と死んでしまった場合とではその人を思う時の私たちの身体の状態が違います。その物事が存在するということは、そういう私たちの身体の状態のことである、と(拙稿の見解によれば)言えます。

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実物を見る

2011年05月10日 | xx5存在は理論なのか

ダマシ絵はそれくらいにして、実物で見てみましょう。

目の前にリンゴがある場合と、そのリンゴがリンゴでなくなった場合とでは、私の身体の反応が違います。私たちの身体の内部状態が違う。少なくとも脳神経系の状態は違う。おそらく自律神経系や心臓血管系や分泌腺や筋肉の緊張度合も微妙に違うでしょう。たとえばリンゴがある場合は唾液腺が興奮していたりします。

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 何を見ているのか?

2011年05月09日 | xx5存在は理論なのか

Klimt__altar_des_dionysos 似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」というものもあります。同じ絵がアヒルに見えたり、ウサギに見えたりする。アヒルのくちばしに見えたところがウサギの耳に見えたりする。この現象を、拙稿の見解で理解すれば、身体がアヒルを求めていればアヒルが現れる、身体がウサギを求めていればウサギが現れる、ということです。そういうものが現実である。私たちは本当にこの絵を見ているのか?私たちが見ているのはアヒルであるかウサギであるかであって、この絵ではないだろう(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』既出)ということになる。私たちの身体はそういうふうに現実を感じるようにできている。そういうものが現実である、ということができます。物事が存在するということは、そういうことである、ということができます。

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