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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在の立ち位置

2011年05月18日 | xx5存在は理論なのか

そもそも物事が存在するとかしないとか言う場合、私たちはその物事から少し離れて、仲間の立ち位置に立って見ている。注目する物事が皆の目の前にあって、皆でそれを見つめている。その物事は、それに近寄って手を伸ばせば皆でいっせいに触れる、と思える。あるいはその物事のほうが動いて私たち皆に接近してくる。私たちの身体に影響を与える。そういう状況にあるとき、私たちは、その物事がそこに存在する、と仲間の皆で感じる。そういう状況で仲間と共有できる感覚として、存在感という感覚が人類に発生してきたと思われます。

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意味不明の意味

2011年05月17日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_freundinnen このような(自己回帰的な)言葉から、無理やり直感で意味を感じ取ろうとすることは危険です。ただし、だから意味がないとか意味不明として切り捨ててしまってよいのかというと、それはそうでもないでしょう。

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話し手がいなくなった

2011年05月16日 | xx5存在は理論なのか

このことを少し離れたところから落ち着いて考えると、私や世界がなくなるという言葉ばかりでなく、もともと私が存在する、あるいは世界が存在する、というような言葉がそもそも何を意味しているかにも同じむずかしさが含まれていることが分かります。話し手がいなくなった場合を想定して語る(自己回帰的な)表現になっています。こういうような言葉から無理やり直感的な意味を感じ取ろうとすることはかなり危険だといえるでしょう。こういうような自我の存在にかかわる概念を分析の対象としようとした哲学者あるいは宗教家が混乱に陥った例は歴史上多くあるようです(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。

拝読ブログ:ポートナー『意味とはなにか』第1 (8)<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"></shape><imagedata o:href="http://d.st-hatena.com/statics/theme/4chairs-sky/comment_rd.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.gif"></imagedata>

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哲学の落とし穴

2011年05月15日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_deathlife 世界がなくなるという言葉も似たようなむずかしさがあります。世界がなくなるとだれかがそのことを感じ取って身体を反応させることができなくなりますね。ですから、私が死ぬという言葉、あるいは世界がなくなるというような言葉は、実は(さきの拙稿の見解によれば)意味不明になる恐れを含んでいます。

私が死んでしまう。あるいは世界がなくなる。こういう言葉は、詩的な比喩としては何らかのイメージを感じることはできますが、それはほかの現実と整合しません。こういう言葉から無理やり直感で意味を感じ取ろうとすると変な幻想が作られてしまいます。かつて哲学が落ち込んでいった危ない落とし穴です。気を付ける必要がありそうです。

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私は死んでしまった

2011年05月14日 | xx5存在は理論なのか

ここでちょっとややこしいケースは、私自身が死んでしまう場合ですね 拙稿19章「私はここにいる」)。その時の私の存在はどうなるのか? 死んでしまった私は存在するのか?しないのか?

私が死んでしまうという場合はその事実を感じとる私はもういない。そうするとそのことを感じて私の身体がどう反応するかも分からない。私の身体の状態自体が存在しない。そうであると、(さきの拙稿の見解によれば)私が死んでしまうことの意味が分からなくなります。他人から見て私が死んでしまうということはよく分かる。私の身体が骸骨になってしまうという単純明快なことです。しかし私から見て私が死んでしまうということはどういうことなのか?それはさっぱり分からないはずです。私がもういないという現実に反応する私の身体がもうないからです。

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拝読ブログ:死んだ夢 

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