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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

生きて動くから言語

2011年05月23日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_waterserpents2 おなじように国家あるいは民族は滅亡すれば消えるものです。こういう場合、その話をしている話し手は滅亡する国家あるいは民族の外側にいてそれを語っている。しかし世界全部が滅亡するという話をする場合、それを語る話し手は世界の中にいる。その話し手は世界が滅亡しても消えることはできない。世界が滅亡するという話をする話し手は世界に含まれている。世界が滅亡するという話が言語として成り立つためには、話し手の身体が生きて動いていなければなりません。つまり世界が滅亡するという話を語っている話し手は世界とともに滅んでいなくなると同時に生きて動いている。

これも存在の理論が含む矛盾ですね。

拝読ブログ:こどのも国inプーパパ一家!

拝読ブログ:世界滅亡の予言は大外れ

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死後の私

2011年05月22日 | xx5存在は理論なのか

ふつう人間は死んだら消えるものです。それが、人が死ぬということの意味でしょう。しかしその人間がその話の話し手としての私である場合に限っては、死んでも消えることができない。私は消えないという前提でしか、私が死ぬという話を語ることはできない。消えてしまっては「私」という話し手が語るその表現が言語として成り立たないからです。消えられない私が消えることが「私が死ぬ」という表現である。そういう矛盾がある。これは存在の理論が含む矛盾でもあります。

拝読ブログ:死後の世界

拝読ブログ:Imagine there's no heaven~♪

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死んでも死ねない私

2011年05月21日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_sea 「××が存在する」という場合、その××が「世界」である場合、「世界」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られている。そういう想定のもとに「世界は存在する」という言葉は語られる。世界が滅亡してしまうとしても、その滅亡した後の世界は話し手から離れたところに見えていなければならない。話し手と聞き手とその他の人間に見えていなければならない。そういう前提のもとにこの言葉はあります。言葉で語られる限り、滅亡する世界もふつうの物体と同じようにいつもそこに見えていなければならない。言語で語る限りこのような限界の中でしか物事の存在は表現できません。

そういう言語の限界から結論すれば、私は死んで消えることはできないし、世界も滅亡して消えていくことはできない。話し手と聞き手が共有する空間の中に見え続けていなければならない。そうであるので、その共有空間では私は死んでも消えていかないし、世界は滅亡しても消えてなくなることはない。つまり私は死んでも死なないし、世界は滅亡しても滅亡しない。直感と矛盾するパラドックスです。しかし、私たちの言語というものはそういうパラドックスを含んで成り立っています。

拝読ブログ:[現代哲学への挑戦]哲学と政治のキアスム

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SUMの前提

2011年05月20日 | xx5存在は理論なのか

「××が存在する」という言葉を使う場合でちょっとむずかしい例は、××が「私」である場合です。この場合も、「私」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られているものである、という暗黙の前提のもとでその語は使われる。そういうものとして「私」は語られる。逆に、「私」が言葉で語られる場合そう語られるしかない。そういう前提のもとにこの「私は存在する(sum)」というセンテンスは語られる。

この言葉の中で語られている私は生きていても死んでいても、どちらにしても、話し手と聞き手には客観的なものとして見えていなければならない。言葉で語ることができる私は、そういうものでしかない。口に出す言葉でなく頭の中で思う言葉であっても、それが言葉である限り、言葉で語られる「私」は、他の人間と同じようにそういう離れたところにある客観的な存在になっています。

拝読ブログ:「生きてるだけで精一杯なのだから」  Cogito Ergo Sum.

拝読ブログ:本 伊藤 勝彦 『デカルト (センチュリーブックス 人と思想 11)

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仲間の視点で認知

2011年05月19日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_margaretewittgenstein 物事が存在する、と私たちが思う場合、仲間とともに仲間の視点でそれを認知する、という無意識の前提に立っています。そのような身体の状態が(拙稿の見解によれば)物事の客観的存在感を作り出している。私たちはそのことにあまり気が付かない。ただそこにその物事が客観的にある、と感じます。それが存在するということです。

「××がある」あるいは「××が存在する」という言葉を言う場合、その××は話し手から少し離れたところにあって、話し手は聞き手やその他その××を感じ取っている仲間の人間と一緒に××を感じ取りながらその言葉を言う。これが存在という言葉の使われ方の始まりでしょう。言語というものは(拙稿の見解によれば)そもそも仲間との集団的な運動共鳴によって作られています 拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」。実際には仲間がいなくても、そういう無意識の想定のもとに、私たちの言語というものは使われています。

拝読ブログ:【原発関連情報】原発推進派の意見

拝読ブログ:「分かりやすさ」の危険性について

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