片足のつま先における拙稿の見解では、この物質世界がこうなっているから私たちがそれをこう感じるのではない。逆に、この物質世界は私たちがこう感じるからこうなっている。萬力屋のラーメンはおいしいから私たちがそれをおいしいと感じるのではなくて、私たちがそれをおいしいと感じるから、そのラーメンはおいしい。それは私の舌の錯覚かもしれない。実際、錯覚とどう違うのか?
錯覚と現実、その違いはつきつめてみれば、私ひとりがそう感じているだけなのか、それともそうでなくて、人間だれもが私と同じようにそう感じているのか、の違いでしょう。そうであるならば、その店のそのラーメンのおいしさは、人間だれもが共有する錯覚である、とも言える。つまり、拙稿の見解(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)では、ラーメンのおいしさを含めて、この現実世界のすべては私たち人類が共有する大きな錯覚である、としてもよい。
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