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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類が共有する大きな錯覚

2009年05月13日 | x9私はここにいる

片足のつま先における拙稿の見解では、この物質世界がこうなっているから私たちがそれをこう感じるのではない。逆に、この物質世界は私たちがこう感じるからこうなっている。萬力屋のラーメンはおいしいから私たちがそれをおいしいと感じるのではなくて、私たちがそれをおいしいと感じるから、そのラーメンはおいしい。それは私の舌の錯覚かもしれない。実際、錯覚とどう違うのか? 

錯覚と現実、その違いはつきつめてみれば、私ひとりがそう感じているだけなのか、それともそうでなくて、人間だれもが私と同じようにそう感じているのか、の違いでしょう。そうであるならば、その店のそのラーメンのおいしさは、人間だれもが共有する錯覚である、とも言える。つまり、拙稿の見解(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)では、ラーメンのおいしさを含めて、この現実世界のすべては私たち人類が共有する大きな錯覚である、としてもよい。

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言語の限界

2009年05月12日 | x9私はここにいる

Moreau_juno

本章でいいたいことはここまでですが、最後にもうひとつ、付け足しの文を書かせてください。これも何度か書いたが、すぐ忘れられてしまう(というより、筆者が忘れてしまう)心配があるので繰り返しておきますが、いましているような話は、ふつうの言葉で語ることではありません。ふつうの言葉を話すときは、話し手の私も聞き手のあなたも、間違いなくこの客観的物質世界の中にいるとしている。そういうことにしなければ、ふつう言葉は使えません。そういう大前提の下で、世間話も、文学も哲学も宗教も、自然科学も社会科学も、政治も経済も語られている。

しかし、いまここでの話はそれではない。ふつうの言葉が使える限界を超えそうな使い方をしています。もちろん限界はだれにも超えられない。けれども片足は限界ぎりぎりにおいているので、すぐ外に出そうになっている。もちろん足は出せませんが、つま先くらいは出ている。そのところで、ふつうの言葉ではない変わった使い方をされています。そこに気をつけて聞いてください。

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客観的現実世界の共有

2009年05月11日 | x9私はここにいる

このように客観的に現実世界を共有するおかげで、人間は、仲間との緊密な協力が可能となった。特に、客観的世界を土台として成立する言語を使いこなすことで、精緻な社会活動が可能となる。また互いに自他の行動を客観的現実の上で予測できることで、信頼感のある安定した社会的活動が可能となっている。

人類の進化史上、数十万年前に起こったらしい(客観的現実世界の共有という)脳のこの(第3B層の)機構変化は、(拙稿の見解では)人類の生存繁殖の能力を飛躍的に高めた。

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自分‐意識‐現実感

2009年05月10日 | x9私はここにいる

Moreau_helene

こうして私たちが目の前に見るような客観的現実がつくられ、私たちはその中に見つけられる自分の身体の動きを予測して、それに五感の感覚と体内感覚や感情を貼り付けることで自分という動きを知る。私たちは、自分の身体のその動きを、自分が動いたと思うことで(拙稿の見解では)自分という認知対象を作っている。

こうして、その自分というものが意識をもって客観的世界を感知している、という私たちの現実感ができあがる。この現実感は、常に運動共鳴によってだれとも共有できる。逆にいえば、このようにだれとも現実感を共有できることで、私たちは、「この世界ははっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」と思える。

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現実の起源

2009年05月09日 | x9私はここにいる

第3B層のこの機能は、下位の層が行う運動に、新しい有益な機能を付加することができる。たとえば、現実世界の法則を学習して物事の変化に関する精密な予測能力を習得することで、多様な環境に適応した生存繁殖の活動ができるようになる。あるいは仲間の行動の予測とそれに伴う自他の感情変化の予測と学習が可能となり、予測されるその現実感に対応する精妙な社会的行動が学習できるようになる。

人類の場合、この第3B層によって形成される、注目する物事に関する現実感を、運動共鳴を通じて仲間と共有し、(その一部を)言語表現を使ってコミュニケーションに使用する機構が(拙稿の見解では数十万年くらい前に)進化した。そのため人類にとって、現実世界は仲間と共有できる客観的な安定した世界となり、(拙稿の見解では)だれにとっても同一の認知と記憶がなされる客観的存在である、と感じられようになった。これが、私たちにとっての、現実の起源だといえる。

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