goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

神秘はない

2009年05月18日 | x9私はここにいる

Moreau_orpheus

本章の表題として、冒頭で小説から引用した「私はここにいる」という神秘的な自意識の表現は、まさに言葉の限界を超えて言葉を使おうとしている。言葉の限界を気づかずに超えてしまうことから起こる神秘感です。あるいは、もしかしたら作家は、それに気づいていながら、あえてこのような言葉の使い方をしたのでしょう。巧妙な文学技法です。しかし、このように作られた神秘感を、人間存在の神秘と思うのは間違っている。

哲学はここから間違っていく。言葉の限界を超えて言葉を使おうとするとき、言葉は意味を失う。はっきりした意味がない言葉になります。はっきりした意味がない言葉に神秘はない。言葉の限界を超えて使われる言葉に、実は、神秘はない。

拝読ブログ:「異邦人」アルベール・カミュ

拝読ブログ:やんごとなき読者』

コメント

言葉の限界の外側

2009年05月17日 | x9私はここにいる

そういうような人間の言葉の限界の中で、物事は語られる。どのような物事であろうとも、科学であろうと、哲学であろうと、言葉で語られる限り、だれもが共有するその限界の中にいる。したがって、拙稿で語ることも、もちろん、その限界の中にあります。その限りで、拙稿が言えることは、ここに限界がある、ということまでです。

実際に、言葉で言葉の限界を言うことはむずかしい。言葉は言葉の限界はないものとして作られている。言葉は言葉で語ることができるすべてについてしか語れないから、逆に言えば、すべてを語ることができる。言葉の限界の外側に何があるのかを言葉で言うことはできない。それを言おうとすることは意味がない。だから、それが限界なわけですからね。

拝読ブログ:Davyは『草食系』なのか

拝読ブログ:本橋成一『バオバブの記憶』

コメント

この現実世界の内側

2009年05月16日 | x9私はここにいる

Moreau_night

たしかに優秀な詩人や小説家は巧妙な比喩を使って、読者に別の世界を想像させることができる。しかし、一語一語、その意味をよく考えてもう一度、その文を読んでください。それは比喩を使った錯覚を組み合わせて作られたバーチャルな、イマジネーションの世界です。たしかにすばらしい。美しい言葉のマジックといえる。絵の具を組み合わせて目の覚めるような美術を作り出す画家の才能と同じようです。人間精神の高みを表しています。

私たち凡庸な人間は、画家のように絵を描くことはできません。小説も書けない。しかし詩人や小説家でない私たちふつうの話し手も、かなりじょうずに比喩を使って毎日の会話をしている。人間の言葉は、目に見える物質世界の共有を土台にしながら、比喩を使いこなして、目に見えないいろいろな感覚や感情を伝えることができる。そうして私たちはいろいろな現実を共感し、共有している。

しかし、比喩によってひろげられる部分を含めても、結局は、この世界は私たちが共感できるものだけからできている。私たちがお互いに共感できる世界を経験で確かめていくと、いまこうあるような現実世界ができあがる。それ故に、人間の言葉は、この私たちだれもが同じように客観的に感じる現実世界の内側で使われるしかない。はっきりと言葉で語れる物事は、この現実世界の内側のことだけです。

拝読ブログ:ル・クレジオ 『砂漠』 <言葉を超えた詩人たち 5-①>

拝読ブログ:インカの目覚め…

コメント

別の世界は必要ない

2009年05月15日 | x9私はここにいる

しかし、私たちが本当はどこにいるのか? ラーメンの本当の味はどうなのか? 本当の世界がどうなっているか? そういうことについては、拙稿は何もいっていない。拙稿ばかりでなく、どんな文章も、そのことについては何もいっていないはずです。

なぜならば人間の言葉は、そういうことを語るようにはできていない。あえて言えば、本当の世界という言葉に意味はない。ラーメンの本当の味という言葉にも意味はない。私たちがこう感じるこの客観的な物質世界のほかに別の世界を想像することはできないし、そうする必要もない。

拝読ブログ:音楽に意味はいらない

拝読ブログ: 抜歯後の世界…

コメント

本当の現実は?

2009年05月14日 | x9私はここにいる

Moreau_jupiter

この現実が錯覚であるというならば、私たちはその中にいるはずはない。錯覚をしている私たちは錯覚の外側にいるはずです。これが錯覚であるならばこのラーメンのおいしさは本当ではない。では、私たちはどこにいるのか? このラーメンの本当の味はどうなのか? 私たちがいる本当の世界はどうなっているのか? どのラーメンもまずくて食べられないような世界はどこにあるのか? その世界では、「ラーメンはおいしい」といってもその言葉には何の意味もない。ラーメンのおいしさは存在しない。「私はここにいる」といってもその言葉には意味がない。「私」にも意味はないし、「ここ」にも「いる」にも意味はない。どんな言葉にも意味はない、となってしまう。もしそうだとすれば、本当の現実はどうなっているのか?

そういう疑問がでてきますね。

拝読ブログ:頭が空っぽ

拝読ブログ:いつもここに

コメント