そうはいってみても、いろいろな種類の現実がある、という考えはどうもすっきりこない。やはり本当の現実は一つでしょう。という気がしてしまいますね。
たとえば、私たちの目の前にあるこの客観的な物質世界は本物でしょう? と聞いてみたい。
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そうはいってみても、いろいろな種類の現実がある、という考えはどうもすっきりこない。やはり本当の現実は一つでしょう。という気がしてしまいますね。
たとえば、私たちの目の前にあるこの客観的な物質世界は本物でしょう? と聞いてみたい。
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事前に行為の結果を予測し、事後に行為の結果を実測して、私たちの身体は学習していく。その予測の通りに身体が動いて予測の通りの結果が現れてくる場合、私たちの身体はその予測を現実と感じて、それを学習する。逆にいえば、私たちが学習したことが現実となる。
そういう言い方をつかうとすれば、実験をしている科学者にとっては、実験装置の中で起こっている酸化現象が現実(現実1)です。また、伝い歩きをしていて転んでしまった一歳児にとっては、目の前の床が跳ね上がっておでこに当たってくる衝撃が現実(現実2)です。また近所の奥さんと世間話をしている学生にとっては、自分の態度を行儀悪いと思ったかもしれない奥さんの感情の動き方が現実(現実3)でしょう。
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私たちの身体は、現実をしっかりつかんでから、それに対応して行為をなしていくように作られている。エアコンが室温を感知するのと同じです。エアコンに向かって、「室温といっても一つじゃなくて、測る場所や近くの発熱体や検知器の性能によって値がちがってくる。 だから室温といっても複数あるものなのだよ」と言ってみても、言うことを聞いてはくれない。エアコンは決まった検知器で決まった場所の気温を測定して、その情報を現実として、モーターを駆動する。逆にいえば、コンプレッサのモーターを駆動する情報をもたらすものが、エアコンにとっての室温という現実です。本当の室温とは何か、などという問題は、エアコンにとっては意味がない。モーターを駆動する信号を作っているものが現実の室温ということになる。たとえば変な設計のエアコンがあって、温度検知器が三個付いているとする。一個は床、一個は天井、残りの一個は冷蔵庫の裏に取り付けられています。信号切替え器がランダムに三個の検知器データを切り替えてしまうとします。エアコンは与えられた、あやしげな、室温信号にしたがって、モーターを駆動するでしょう。でもそれが、エアコンにとっての現実の世界です。
私たちの身体が、それを現実と感じ取って行為の結果を予測しながら行為を実行していく場合、感じ取っているそれを現実ということができる。無意識のうちに身体が予測する運動結果に引きずられて、私たちの身体は変化する。そのような予測結果をもたらす世界を(拙稿の見解では)、私たちは現実と感じる。
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「ある」、「存在する」という言葉の響きに神秘感を伴うような表現で表される哲学の問題は、皆、この類の擬似問題といってよいでしょう(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。ふつうの言葉の語感で「ある」とか「いる」とか言っているうちはまだよいのですが、むずかしそうに「存在」とか「実在」とか「現実」とか「真実」とか言い出すとあぶない。存在か不存在か、生か死か、悩み始めると偽問題の世界にどんどん落ち込んでいく。宗教も西洋哲学も東洋哲学も、むずかしそうな話は全部、ここに突っ込んで落とし穴へ落ちていきます。
まあ、この落とし穴は、(筆者に言わせれば)哲学のブラックホールです。哲学という以前に、言葉を使う理論の落とし穴ですね。人類の言語が持つ破れ目、クレバスのようなものです。それだけ人を引きずりこみやすい形をしている。怖い裂け目ですね。
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このように現実を詳しく調べていくと、複数の現実があって、それぞれの現実は互いに矛盾する。私たちのふつうの常識では、複数の現実を混同して一つのものと思い込んでいる。それでも毎日の生活には困らない。ふつうは矛盾を感じないで過ごしていけるが、たまに混乱が起こる。たとえば、私とは何か、と考え込むと混乱が起こる。どの現実の中にも、その一つの現実に徹すれば、私が私と感じられるような私はいない。複数の現実にまたがった私がいると思うときだけ、私はいる。ところが、それぞれの現実は矛盾している。現実がひとつではなくいくつもある、というのもおかしい。そこに、私が私を感じるときの違和感が生じる。
またたとえば、古来、宗教や哲学が得意とする死の問題なども、自分と世界の表れ方に関する複数の現実を混同するところからくる混乱です。死に関する神秘は哲学的な問題のように見えるけれども、実は一種の擬似問題です(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。脳神経科学や心理学や哲学で問題とされる意識の問題も(拙稿の見解では)その類の擬似問題です(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また、物理学の基礎論に関して提起される宇宙の起源や時間の果て、宇宙の果てなど時間空間の存在問題も現実や存在に関する混乱から生まれる擬似問題とみなせます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。
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