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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実世界の存在の起源

2011年01月22日 | xx4世界の構造と起源

Gustav_klimt_006 A君は、骨と関節と筋肉からなる自分の身体と、同じような構造を持つ私の身体と、さらに大きいが単純な剛体である机からなる連結運動体が現実に実際にここに存在している、と感じている。そう感じているから私と協力して運動することができる。逆にこういう運動体が、今ここに現実に存在していると身体で感じない限り、A君はうまく私と協力して行動することはできないでしょう。

私とA君は、この三次元空間の中に存在している地面と重力が働くことでその地面に引きつけられている物質である自分たち二人の身体とそれらに掴まれている机という運動体が存在していて、それは重力の法則や人体運動の法則などよく分かっている法則に従って動いている、という現実を強烈に身体で感じとっています。そうすることによって、私たちはうまく協力して運動することができる。その結果私たちは栄養供給システムにつながることができています。

このようにこの物質世界が現実に存在していると感じとることは、私たちが自分たちの身体を正しく動かし、互いにうまく協力して生きていくためには必要な条件であるといえます。逆に言えば、このように私たちが身体を正しく動かして互いにうまく協力して生きていくために、この現実世界は存在している。拙稿の見解によれば、これが現実世界の存在の起源であるといえる。つまりこの世界は(拙稿の見解によれば)、私たちが互いにうまく協力して栄養供給システムにつながることができるために存在するようになった、といえます。

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協力するために現実はある

2011年01月21日 | xx4世界の構造と起源

たとえば、私はA君と協力して机を会議室に運ぶことができます。A君が机の向こう側を持ち、私がこちら側を持って持ちあげる。机を持ちあげてA君が後ろ向きに廊下を進む。私は机のこちら側を持ちあげながら、A君の動きに合わせて前向きに廊下を進む。廊下が(私から見て)右に曲がっているところでは、A君は(私から見て)左によって大まわりをすることで、私が進みやすくしてくれる。

この協力行動をするためには、A君は自分の身体と私の身体と机が連結して作られている連結運動体の動きを正しく予測して自分の身体を操縦できなければなりません。そのためにA君は三次元空間の中を動く連結運動体の存在を間違いなく現実の世界として感じとっている。

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現実⇔正しさ⇔楽しさ

2011年01月20日 | xx4世界の構造と起源

Gustav_klimt_005 私たちの身体は、いつもそれぞれの状況で、それぞれの現実と接触し、目の前のその現実を正しく操作するように作られている、といえます。

目の前にあるパソコンを操作することがなぜこれほど楽しいのか? 自動車を運転して街角を走ることがなぜこれほど楽しいのか? 学校や会社に通って友達や同僚とおしゃべりしたり、忙しく仕事をすることがなぜこれほど楽しいのか? 

それは(拙稿の見解では)私たちの身体が、そういう物事を現実と感じ、その中に飛び込んでしかるべく身体を動かして動き回ることが正しい身体の動きだと感じるようにできているからでしょう。それら現実を正しく現実として感じとるとき、その中で自分の身体が正しく動くことでそれら物事は正しく反応してくれる。その現実感覚にそって身体が正しく動いていく結果として間違いなく栄養供給システムにつながることができる。そのとき私たちは楽しいと感じる。そのような仕組みに、私たちの身体がなっているからです。また逆に、私たちの身体がそうなるようにこの現実世界が作られているから、とも言えます。

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意識して正しく動く

2011年01月19日 | xx4世界の構造と起源

私たちは正しく栄養供給システムにつながるために正しく世界を思い描き、その中を正しく動いていかなければなりません。私たちはいつも、身体の動きが正しくあることを確認し、正しくないときはいつも正しくあるように修正しなければなりません。正しくある場合に、私たちはそれを現実と感じ、正しくないときにはそれを現実ではない、現実にあってはならない、と感じます。そして現実を正しく見ることができるように私たちの身体の動きを修正します。

私たちの身体は自然と正しく動く。私たちの身体が自然に動く動きを正しいという。私たちが毎日の生活で意識して、していることは、そういうことです。逆に言えば、そのように現実を感じとって動いている場合、私たちは意識がある、といわれる状態にある、といえます。

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現実は正しい

2011年01月18日 | xx4世界の構造と起源

Gustav_klimt_004 毎日の場面場面で、私たちはこれらの現実を感じとり、それに合わせて自然に身体が動くようになっています。逆に言えば、私たちにとって、そのように自然に身体が動くように現れる現実が正しい現実であり、そのように自然に動く身体の動きが正しい動きである、といえます。私たちは、自分たちの身体のその動きが正しいと感じることによって、身体にかかわるその物事が現実であると知ることになります。

ちなみに、正しい、とか、真実である、とかいう言葉は古来の哲学ではたいへんむずかしく使ってきましたが、拙稿ではごく単純に、だれもが現実と感じる、というような意味で使います。幼稚園児でも、いいとかいけないとか、うそとかほんととか、しっかり使いこなしていますね。人間は、哲学など知らなくても、正しいとか真実とかの区別は完全にできる。それは(拙稿の見解によれば)現実を現実と感じとるという身体の感覚からきていることだからです。

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