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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

自我、エゴ、自意識、[私]の理論

2011年02月17日 | xx4世界の構造と起源

Gustav_klimt_023 いまここで名付けた[]の理論は、昔から哲学者や心理学者が述べてきた自我とかエゴ、自意識等といわれるものに関連する概念ですが、それらと少しずつ違うところもあるので、やや脇道になるのを覚悟で少し詳しく解説してみます。

拙稿の見解では、目的論・意図的行動表現による世界の描写から派生したこの[]の理論は、人類の発達史上、言語と並行して急速に発展したと推測されます。

私たちは[]の理論を持つことで、仲間に私のことを私といって話をすることができます。まずこれがとても便利なことです。もうひとつ[]の理論を持つことのメリットとして、生活をしっかりと見通すことができるようになるという点が重要です。

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大人になるための基礎理論群

2011年02月16日 | xx4世界の構造と起源

人間は、幼稚園に入るころまでに、存在の理論(本章で既述)と、心の理論(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)、に加えて、ただいまここで名付けた[]の理論(まぎらわしいので[]とカッコでくくります)、という理論群を身につけて人々と交わることができる。これらは幼児が大人の人間になるための基礎理論群であるといえます。これらの理論群を使いこなせれば、人々と言語を使って会話するときにたいへん都合がよい。逆にそうしなければ、まず言語をきちんとは使えません。人々と深く通じ合って協力する緊密な社会に参加することはできないでしょう。

私たちはまた、[]の理論を持つことで、自分の行動を記憶し反省し自分自身と会話することができる。自分の行動を基軸にして過去の出来事を記憶することでそれを思い出して利用できる。学習できる。これからの行動をうまく計画することが可能となる。便利な方法です。そうして人類は[]という理論を獲得し、自分たちが住む現実世界の内部を動いていく自我という存在を獲得したのです(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。

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私という理論

2011年02月15日 | xx4世界の構造と起源

Gustav_klimt_022 そうであるならば、なぜ、私たちはわざわざ私という理論を作り出して使っているのか? それはやはり私たちが生きていくために、そうすることがとても便利だからでしょう。私が私を私と思うようなそういう理論を身体に埋め込んでいることによって、人類は集団として緊密に協力できるようになりその結果、地球環境の中でずぬけて効率のよい栄養供給システムを維持する私たち現代人を出現させたからでしょう。

世界の中心に置かれているらしいこの身体を動かしているだれかがいる。そのだれかを私とする(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。まあ、こういう考え方を、拙稿としては、私の理論(筆者が作った理論という意味ではなくて、この世に私というものが存在するという考え方、という意味です)、と名付けましょう。

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物質現象vs.私

2011年02月14日 | xx4世界の構造と起源

ところが一方、因果論(あるいは場の理論)による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、それを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。

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私が存在する仕組み

2011年02月13日 | xx4世界の構造と起源

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いずれにせよ、人間は意志を持って自分の身体を動かしている、という目的論的な思い込みは、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるようで(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出)、拙稿の見解では、これが言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。また同時にこの機構が(次に述べるように)私という存在の基盤にもなっていると思われます。

目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。実際、私たちの言葉がそうなっているからです。こう思うことによって、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

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