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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

世界と私は無関係?

2010年12月17日 | xx4世界の構造と起源

Tizianodanae1 世界は、世界がこう存在して、そこに私の身体がこう存在していて、その身体が世界をこう感じとっている、かのように感じとれる。それは世界がこう存在しているからだ、と単純に思えます。しかしそれだけでは、世界が存在することは理解できますが、それを感じとっている私の存在が必要であることが理解できない。世界が、私が世界をどう感じとるかに関係なく存在しているならば、私がどう感じるかは世界とは全く関係がないはずです。世界の存在と私の存在とは、互いに関係がない別の話になってしまいます(拙稿23章「人類最大の謎」)。

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チキンorエッグ

2010年12月16日 | xx4世界の構造と起源

ここにも、チキン―エッグ問題が現れてきます。世界の存在が先か、観測が先か? 世界が存在するからそれが観測されるのか?それとも、観測されるから世界は存在するといえるのか? このような質問には(拙稿の見解では)答えがない。近代哲学には、存在の問題は認識の問題と不可分であるとする考え方があります(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判』第二版 既出)。私たちが仲間と一緒にそれを感じとるということと、それが存在するということは(拙稿の見解では)同じことです。同じ意味を表しているといえます。

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理論と存在

2010年12月15日 | xx4世界の構造と起源

Tizianobachanal 物理学の法則は、だれが観測してもそのように見えるから、それは存在している。それ(物理学の法則)はこの現実の物質世界を存在させている、ように見える。

理論(たとえば物理学の法則)はなぜ存在するように見えるのか? 世界のありさまがその理論によって合理的に説明できることによって、私たちはその理由を納得します。その理論(たとえば物理学の法則)が完全に納得できる場合、その理論によって存在が認められるものは、完全に存在している、といえます。科学理論はそのようにして物質世界を完全に存在させることができます。

拝読ブログ:プラネタリウム解説員のつぶやき:愛称募集!

 

拝読ブログ:「復刻・理論篇」

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極東の非英語国日本

2010年12月14日 | xx4世界の構造と起源

冗談ではなくて、現代でも極東の非英語国日本の学者の発見や理論は欧米で認められにくい、というのは事実のようです。実験や観測のデータに基づく明快な事実は認められるようですが、あいまいさの残る理論や仮説などは無視される傾向がある。英語での発表や宣伝が下手だからという理由もありますが、そればかりではなさそうです。直感的共鳴という身体的な要素が(拙稿の見解では)科学理論の理解の下敷きにもあると思われます。

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科学的発見

2010年12月13日 | xx4世界の構造と起源

Tizianobacchus_and_ariadne サンテグジュペリ の童話におもしろいエピソードがあります。、 星の王子様 の小惑星はトルコの学者によって発見されたが、学会発表の時にその学者がトルコ服で登壇したために、その発見は無視されてしまった。改めてヨーロッパ人の服装をして学会発表に臨んだところ同じ発見は認められた。とあります。

メンデルの法則は一八六五年に学会発表されたにもかかわらず、グレゴール・メンデルの死後十数年後の二十世紀初頭まで学会に無視されていました。これはメンデルが先見の明がありすぎたというよりも、彼が当時ヨーロッパの片隅だったチェコの田舎寺院の修道僧だったからといわれています。

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