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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

生きている

2012年04月13日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__hylas_and_ 実際、どんな場合に「私は生きている」という文が使われるのでしょうか?

「おーい、聞こえるか?ジョン!生きているか?」「俺は生きているよ」というような場面。マンガではよくありそうです。

「俺は生きているよ」という返事を聞いた聞き手は、ああよかった、ジョンと一緒に家に帰ることができる可能性が残っている、そうなるようにがんばろう、と思うでしょう。そう思うことが「私は生きている」という文の意味です。しかし特殊な意味ですね。注意しなければいけないことは、このような意味は、聞き手にとっての意味でしかなく、話し手にとっては変な意味になっている点です。実際、「私は生きている」というとき私は生きているに決まっているし、私が生きていないときは「私は生きている」とも何とも言うはずがないのですから、この文は話し手にとって何の情報もない。

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三人称vs.一人称

2012年04月12日 | xx9 生きるという生き方

人が、生きる、というとき、私たちは問題なくその言葉を使うことができる。しかし、私が生きる、というとき、私たちはその意味をきちんと理解することはできません。

私たちが、ある人が生きていると思うということは、いずれその人に会えるだろう、あるいはその人がこれからすることを見聞きすることができるだろう、と思う、ということです。私たちが「ある人が生きている」というとき、話し手も聞き手もそう思っています。ところが、話し手が「私は生きている」といったとすると、これは奇妙な言い方に聞こえますね。しかしこれは文法的には誤りではありません。文法で形式的に説明すれば、この文は、「ある人が生きている」という文の第三人称の主語を第一人称に置き換えた文だというだけです。

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高尚な哲学

2012年04月11日 | xx9 生きるという生き方

Jason_and_medea__john_william_water 「私が死んだら」とか「私は生きているから」とか自分について語る自己遡及的表現は、すぐに哲学的混乱を呼び起こします。この哲学的混乱を何か神秘的で深淵なものだと錯覚すると、「いのち」、「人生」、「自分の死」というような神秘的概念に思いを巡らすことが高尚な哲学のように思い込んでしまう恐れがあります。

この問題に関して拙稿の見解を言ってしまえば、これは言葉の使い方の混乱であって、神秘でも高尚でもない。「いのち」、「人生」、「私の死」というような言葉は、もともと意味が混乱するように作られてしまった不安定な概念です(拙稿7章「命はなぜあるのか?」第2部p25拙稿第3部「私はなぜ死ぬのか? )。こういう言葉を深刻に受け取ることは危ない。薄氷の上を歩くように、すぐ踏み抜いてしまう恐れがあります。

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自己遡及的表現

2012年04月10日 | xx9 生きるという生き方

こういう使い方をするために、私たちはそもそも「生きる」という言葉を作って、長い間使っていた。そのうち意味がだんだん広がってきて、「生きる」という言葉は、生物が生存するというような意味になりました。この使い方では、「生きる」という言葉は、客観的に見て生きているかいないかを示すために使われます。この新しい言葉の使い方は、物事を客観的にあるいは科学的に正確に記述するのには便利でよかった。しかしまた人間は、自分自身をも客観的に語る必要を見出してこの語を使うようになる。そうなると、自分を含めた物事を客観的に語るにはますます便利になる反面、いわゆる自己遡及的表現からくる哲学的混乱が現れてきます。

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人を思い出す

2012年04月09日 | xx9 生きるという生き方

Gone_but_not_forgotten__john_willia

その人が生きていてもうすぐ会える、とか、明日会わなければならない、とかいう場合、私たちはその人と会ったときどういう関係になるのか考えます。予測します。どうしようか、とか、どうなるだろうか、とか、期待します。もうしばらくは会わないという関係ならば、あまり深く考えませんね。それでも、時々思い出してどうしているか、と知りたくなったりします。

ある人が生きているか生きていないかということは、こういうことでしょう。それはその人のことを語ったり、思い出したりする私たちの内部の問題である、といえます。

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