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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

「生きる」の意味

2012年04月18日 | xx9 生きるという生き方

それで、そうでない生き方があるのか?そういう疑問が考えられるでしょう。しかし、生き方、という言葉で言ってしまった瞬間に、私たちは、仲間とともに客観的な世界を共有している、という暗黙の前提を認めてしまっています。

そうでなければ、生きるという言葉の意味が出てこない。現代人の私たちが語り合うときでも、人が生きる、というときの言葉の意味は、単に医学的生物学的な生死をいっているのではなくて、その人が何かをしている姿を仲間に見られている、認められている、という暗黙の想定があります。

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生きるという生き方

2012年04月17日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__magic_circ 時代とともに言葉の意味がずれていくとしても、いずれにせよ、どの時代でも、人は仲間とともにこの世界の中にいる。自分で自分はそうだと思っています。人間は皆そうだと思っています。そう思うことで生きている。そういう生き方がふつうの人の生き方でしょう。つまりこれは、いわば、生きるという生き方です。

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言語の効率化

2012年04月16日 | xx9 生きるという生き方

人が生きている、という言葉は(拙稿の見解では)、人が仲間とともに客観的な世界を共有している、という意味です。これは現代人の間でよく使われている医学的生物学的な生死の概念とは違って、生きているという言葉のもともとの意味だった、といえます。医学的生物学的な生死の概念は、近代以降、科学が発展するにつれて、言葉が作られたときの元来の意味から外れていって物質現象を描写する概念になってしまった、といえます。それはそのほうが、近代あるいは現代の社会で物事を語り合い、適切に処理していくのに効率的であったからでしょう。

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ダイイングメッセージ

2012年04月15日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__i_am_halfs 拙稿19章(私はここにいる )である小説の例を引いて書きましたが、声を失って瀕死の悪役が筆談で「私はここにいる」と書き残す。このとき、この「私はここにいる」という言葉は独り言ではあるが、それと同時に相手役、読者、あるいは世界中のすべての人間に対して叫んでいる言葉でもある。「私がこれから何をするか、それを見てくれ。私がこれからすることを、あなたと同じ人間が何かを思ってしているのだと認めてくれ」と叫んでいる、といえます。それは、もちろん、自分がそう思いたいからです。そう思うことで、自分が生きていると感じることができる。人はだれもが、死ぬ間際に、あるいは日常的にいつでも、そういう気持ちを持っている、ということでしょう。

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内容空虚

2012年04月14日 | xx9 生きるという生き方

これは独り言で「私は生きている」というときにも当てはまることです。「私は生きている」と独り言を言ってみたところで、何も意味がない。生きている私が「私は生きている」と言っているだけで言っても言わなくても何も変わらない、と思えます。つまりこの文は、これを語っても聞いても、新しいことが分かるわけではない。そうであるとすれば、「私は生きている」という文の内容は空虚なのではないか。意味はカラではないか、と思えます。

しかし、そう簡単に切り捨ててしまわないで、もう少し、この文を口にする場合の話し手の気分というようなものを想像してみましょう。

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