哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

命はなぜあるのか?

2007年07月01日 | 7命はなぜあるのか

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7  命はなぜあるのか?

「言うことを聞かないと、命がないぞ」と、ピストルを構えたギャングが脅します。そうなったら私たちは、ギャングの言うことを聞くしかないでしょう。命がなくなるのは、とてもいやですからね。つまり命は、誰にとっても一番大事なものです。それはまさにその通りなのですが、ここではそのことは置いておいて、ちょっとちがう観点から話をはじめましょう。

拙稿では、その命というものが実は存在しないのではないか、という話をしてみます。「あなたが言っているその命とかいうものは、この世には存在しませんよ」とギャングに言ってみましょう。まあたぶん、ギャングは怒り狂って、ズドンとあなたの心臓を撃ちぬくでしょう。

そのとき、あなたの命はなくなるはずです。では、そのなくなったものは何でしょうか? 身体ですか? 死んでも身体は残っているでしょう? あなたの身体の物質は、弾丸の運動エネルギーを受け取ってすこし変形しますが、大体残っているでしょう。

弾丸が当たらなかったのに、あなたの心臓が弱くて発作を起こして停止してしまうこともありそうです。その場合など、心臓が止まる以外、身体のどこも破壊されていません。それでも命はなくなってしまうわけです。

では、なくなった命とは何でしょうか?

命とは何か? 生きているものが持っていて、それ以外の無生物や死んだものが持っていないものを「命」といいます。しかし、こういう言い方は国語辞典のようですね。同意語反復ですから、内容がありません。実はこの場合、辞典など必要ありません。言葉など要りません。実際、言葉などしゃべれない幼児でも、「命」あるいは「生きていること」、とは何かを知っています。

道端に転がっている虫を指差して、幼稚園児に聞いて見ましょう。「これ、いきてるかなあ?」 棒でつついてみましょう。虫がもぞっと動く。「あ、いきてるう」 幼稚園児は、目を輝かせて叫びます。

このように、人間は誰でも、目の前にある物質が生きているのか、いないのか、一目で分かります。刺激に反応し、身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感知します。脳の辺縁系扁桃体が自動的に、命の検出信号を出します。人間の脳に、生まれつきできている仕組みです。

この脳の知覚反応を自覚して、人間は、命とか、生きているとかいう言葉を作って使ってきたのです。それをさらに抽象化して、生物という概念を作りました。そこから生物学を作り、生物の特徴として、科学用語としての生命現象が再定義されたわけです。

現代人の言う「命」はふつうこれを指します。直感としての「命」、それが抽象化されたいわゆる「いきもの」、それと科学用語として厳密に定義された「生命現象」。新聞雑誌などにあるふつうの文章では、これらが全部ごっちゃにされて、「命は何よりも大切だ」とか書かれているのが実情です。

「命ってナーニ?」という小学生の質問に答えて、生物学者がやさしい理科の解説を書きます。それはそれで教育としてはとても良いことですが、こういうことが哲学の混乱にも一役買っているわけです。

新聞記者は、生命の神秘について生物学の権威に質問します。しかしそれでは実は答えは得られません。科学者に神秘について聞いても無駄です。生命の神秘について知りたければ、生物の先生に聞くよりも、幼稚園児に聞くことが正しい。そこにある虫が命を持っているかいないか、子供はすぐ答えてくれるでしょう。科学者は駄目です。神秘について分かりやすい答えはできないでしょう。科学者は、科学的事実についてだけ分かりやすく答えられる。でもそれは、命の神秘とは関係ない話なのです。

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