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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ぞんざいな存在

2007年11月09日 | x3存在はなぜ存在するのか

Delacroixparrot 筆者はどうも存在という言葉が、あまり好きではありません。存在、なんて存在しないのじゃないか? 存在なんて、いい加減な、ぞんざいな言葉なのじゃないか、と思えてしまう。

「今朝は晴れていて気持ちがいい」と言いたいときに、「今朝が存在してかつ晴れが存在しているので気持ちの良さが存在する」と言い換えることはできますが、素直な言い方とは思えませんね。 あるいは、「今朝と共に晴れがあり、そして気持ちの良さがある」とも言い換えることもできそうですが、どうですか? つまらない言葉遊びのような気がしませんか?

 存在という言葉は、いい加減で頼りないけれど、存在感という言葉は存在感がある。ふつうの人は、存在論などという言葉はあまり使わないけれど、直感で感じる存在感は頼りにしていて、それに導かれて毎日の行動をしている。

 「彼女は存在感がある」というと、何を言いたいか、すぐ分かりますね。

つまり人間は、哲学理論以前に、直感で感じる存在感をもとに目の前の物質や人物が、今その場所に幻覚ではなく現実に存在し、自分や他人など人間の感覚に映り、自分や他人の運動作用にきちんと反応し、また干渉し、影響する、と思っている。

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なぜ、あると思うのか?

2007年11月08日 | x3存在はなぜ存在するのか

存在の問題に対して、旧来の哲学は非常にむずかしく考えてきました。存在はすべての根本だ、すべては存在から始まる、と哲学者たちは思ったのでしょう。たとえば、「認識論と存在論の相補性」とか、「主体としての私が認識する現象を最も単純化して説明できる理論としての世界の存在」というような言い方で議論を発展させてきた。存在が実体か、それともそうではなくて認識が実体か、などという議論もあった。現代に近くなると、「存在は存在しない」(一九二七年 マルティン・ハイデッガー存在と時間)という言葉も使われています。

二十世紀後半以降の現代哲学では、何が実体か、などという不毛の議論は避けて論理の整合性を追求することに興味が移っていく。しかし、そういう現代風のアプローチでも、この世の存在の神秘性を説明することはなかなかうまくいかないようです。 

確かに、この世がこんなふうに存在してここに自分がいる、ということをふしぎ、神秘、と思う人は多いでしょう。しかし、その気持ちは「存在」という言葉の響きに引っ張られている。 「我あり」という言葉を思い浮かべるから、「私がここにいるのだ」という気がするわけでしょう? それで自分の存在を不思議と感じてしまう。その前に、私たち人間はなぜ「○○がある」と思うのか、そっちを調べるほうが先ではないでしょうか?

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存在感を学習

2007年11月07日 | x3存在はなぜ存在するのか

Delacroixodalisque2 現生人類はこの機構をさらに発展させて、憑依した他人の視座に乗り移り、そこから世界を見ることによって自分たち集団全体の運動を予測する。その運動に干渉する現実の物質を集団的に感じ取り、自分だけの主観的な感覚から独立して存在するように感じられる確固とした物質世界の客観的な存在感を獲得している。そして他人の行動を理解する。つまり運動の共鳴によって、他人が周りの物質とどう関わるかを他人の内部から仮想体験する。拙稿の見解によれば、人間はその方法で、他人の心の存在感と同時に身体周りの物質の存在感を獲得している。

ではなぜ、物質の存在感を感じる機構が、人間に備わっているのか?脳に物体の存在感を生成するしくみは、たぶん哺乳類共通の神経機構でしょう。哺乳動物の脳神経系に記憶される物体の存在感は、対象の特徴によって分類され、条件反射によって食いつくとか、逃げるとかの身体運動を引き起こすと同時に、感情回路に導かれて好悪などの感情ラベルを貼り付けられて記憶される。人間の場合、自分自身との関係を含めた世界モデルの中での位置づけによって感情ラベルの貼り付けがされるようです。その記憶学習は、後の行動の基準を作っていきます。

以上の考察は、現在の科学で説明しようとしても仮説の域を出ませんが、筆者は、近い将来、神経系の詳細な観察が可能になったとき、この機構は実証されるだろうと予測しています。脳神経科学と情報科学の現状を見ると、容易にブレークスルーがくるとも思えませんが、こういうものはある時点で一挙に全体像が解明されるものと楽観したい。筆者の予想では、かなり楽観的といわれそうですが、今世紀中にそれがあるような気がします。

存在はなぜ存在するのか。これが、科学的な意味でのその答え、ということになるでしょう。存在という語は神秘的な響きがありますが、それも、まもなく科学の対象になってくるわけです。

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一歳児後期の存在感覚

2007年11月06日 | x3存在はなぜ存在するのか

赤ちゃんが育っていく過程で、物事の存在をいつごろからつかめるようになるのか。よい実験例があります。一歳児後期(生後二十二月)の発達検査実験です。被験者の幼児は、濡れていないオモチャ(ぬいぐるみ)を見せられた後で隣の部屋に移動させられる。そこで、実験助手の女性から「オモチャに水がかかってびしょびしょになっちゃった」という説明を受ける。それから元の部屋に戻り「さっき見たオモチャはどれ?」と聞かれると濡れていない同型オモチャではなく、水に濡れた状態になったオモチャ(ぬいぐるみ)のほうを指摘できる、という実験結果が報告されている(二〇〇七年 ガネア、シュッツ、スペルク、ドローシュ『見えないものを考える:幼児、言語使用による心的表現の更新』)。このように言語を使って物の存在を感知する能力は、他の動物にない人類特有の機能です。

脳が、現実の客観的物質世界の存在感を感じているとき、脳画像撮像装置で見れば、辺縁系扁桃体から海馬周辺の覚醒時に活動する神経回路網が活性化している。運動神経が活動するとき、この扁桃体から海馬、視床側坐核あたりの神経回路網が、感知した物体を計算に入れて自分の身体の運動形成を調整するようです。

主観的には、その運動調整過程を物体の存在感として記憶していく。この運動調整の機構は哺乳類に共通と思われる。この機構を下敷きに物体の存在感が形成される。特に、視覚を駆使して樹林の枝から枝へ跳び回る霊長類で、物体を認知するこの機構は大きく発達した。

さらに、群生活をする霊長類は、周辺空間に位置する物体を集団的に認知する機構を発達させた。これは、運動を集団的に連動させる脳機構を下敷きにしていると考えられる。物体を認知する運動調整過程の記憶機構と集団連動機構との連結による(たぶん類人猿特有の)この脳機構が、物質世界を客観的に認知する人間の神経活動の基盤になっているようです。

拝読ブログ:ぬいぐるみ☆

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共鳴と共感

2007年11月05日 | x3存在はなぜ存在するのか

Delacroixodalisque たとえば目の前のこの机は存在する、と私は感じる。間違いなく存在するとしか思えない。目で見えるし、手で触れるし、持ち上げようとすれば重い。こういうとき人間の脳は、直感で、それが現実に存在すると感じるように作られている。それから私が、ふと身体の向きを変えて窓の外を見たとします。それでも視界の外れにさっき見た机が存在していることはしっかり分かっている。顔に日が当るのを避けるために、窓を向いたまま私が後ずさりしても、ふつう、机にぶつかってお尻を痛くしてしまうようなことはありません。

私たち人間の脳の中には、目に映っていてもいなくても、自分の身体とその周り三百六十度、自分の周りにどういう物体が存在しているかという世界の情報がしっかり保たれている。しかも、言葉で「ここに使えそうな机がある」と叫んで窓の外にいる仲間に、相手の目に見えない物体の存在感を伝えることができる。人間は自分だけではなく他の人にも当然分かるものとして、目の前の世界を客観的に見ている。仲間の人間のだれかに見えるはずの世界を自分の脳内に再構成して、客観的な世界像を作り、そこに机があると思う。これは仲間と運動を共鳴させ、感覚を共感して集団行動をとるために進化した人類特有の脳機構の働きです。その共鳴と共感の機能で、人間は物事の存在感を客観的に感じ取れるのです。

拝読ブログ責任という感覚と概念

拝読ブログ:コギト エルゴ スム

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