なぜ人間は「○○が存在する」、「○○がある」と思うのでしょうか? そのとき人間の脳の神経機構はどう動いているのでしょうか? それは人間以外の動物とどう違うのでしょうか? 人間以外の動物は、「○○がある」と思うでしょうか? たぶん思わないでしょう。動物は、そこに食べ物があれば「ある」などと思わないで、すぐ食いつきます。猛獣がいるのを見つけると「いる」などと思わないで、すぐ後ろを向いて逃げます。 そのほうが素早く行動できて、生き残りやすいでしょう。「ある」とか「いる」などとわざわざ思うのは、時間とエネルギーの無駄です。動物が何かを感じる場合、その知覚信号に対してどう運動すべきかは、たいていはっきりしています。そういう場合、知覚信号を感じてから「それがそうある」などと余計なことを考えないで、そのまま決まっている通り直接行動すればよいわけですからね。神経系のハードウェアとして、生まれる前から、そういう回路を造り込んでおけばよいわけです。 そこに机があっても、動物は机というものの存在など感じないでしょうね。「そこに机がある」などということを感じるための神経活動に時間とエネルギーを使うのは、生存のためには無駄なばかりか損です。動物は、机という目の前の障害物を反射的に迂回するだけです。動物の内部では、その迂回運動の神経信号という形で、その障害物、つまり机、は表現されているだけです。 例外的な動物は、人間です。机を見て、「そこに机がある」と思い、後で思い出して「あそこに机があったよ」などと、仲間に伝える動物は人間だけです。 拝読ブログ:「素早い動き」「ゆっくりな動き」脳内では別々の場所で判断 拝読ブログ:テーブルの形
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第三部 死はなぜあるのか?
13 存在はなぜ存在するのか?
ここまで、存在するとか存在しないとかいう言葉を何回も使って話を進めてきましたが、存在するという言葉自体に問題がありそうですね。
このへんに、哲学が間違う最大の原因があるのではないでしょうか? 筆者の考えでは、哲学者たちが「○○が存在する」とか「いや存在しない」とかいう議論を始めるとき、もう半分は間違っています。さらに議論が盛り上がって、哲学者も文学者も科学者も入り混じって、みんなが「××が存在する、しない」という話が楽しくてしかたなくなってきたら、もう議論は、ほとんど全部間違っているのです。「意識は存在する、しない」とか、「命が存在する、しない」、「主体的存在が・・・」とか言い出したら、もう駄目です。温泉旅行での宴会の終わりみたいにめちゃめちゃな話が飛び交うだけになります。
人間は、そもそも「存在」という言葉をきちんと使いこなすことができないのではないでしょうか? もしそうだとしたら、まず、存在などという存在は存在しないのではないか、と疑ってかかるほうが、まだ間違える恐れが少ない。
昔から存在論という哲学があって(現代哲学のよい例としては、たとえば、二〇〇三年 バリー・スミス『存在論』)、存在という言葉に関しては、真剣なむずかしい議論がされてきました。ここでは「存在」という語に対して、哲学で使われてきたむずかしい意味はとりあえず脇に置いておいて、ふつうに世間で使う意味で考えてみます。
ただふつうの人がこの言葉を使うときでも、気をつけないといけない場合がありそうです。
中国語でも日本語でも英語でも、人類の使うどの言語でも、「存在する」、「ある」という言葉はもっとも使われる述語です。「私はここにいます」とか「トイレはどこにありますか?」とか「破産したときの保証はありますか?」とか、「存在する」、「ある」を述語にする言葉を使わなければ日常生活はできません。しかし「私は何のためにこの世に存在しているの?」とか、「私の幸せはどこにあるの?」とか、自分の内面や人生を考えたいときなどには、この言葉は無邪気に使っていてはいけないような気がしますね? それを考えてみましょう。
何かが存在する、というのはどういうことでしょうか?
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