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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在は存在しない

2007年11月14日 | x3存在はなぜ存在するのか

しかし、言葉をうまく使うことで物質ではないものが存在するかのように思えてしまうかどうかと、目の前の物質が存在するかどうかとは、レベルの違う話です。混同してはいけません。

脳内の存在感という感覚にしか根拠がない「存在」という概念を出発点にして、ものごとを哲学しようとしても、結局は挫折する。

そうだとすれば、「存在」という言葉は、物質世界で指差せるものだけに限定して使うべきでしょうか? 議論を分かりやすくするためにはそうかもしれませんね。まあしかし、いままで自由に使ってきた言葉を勝手に制限することなどできない。言葉使いに関して拙稿の方針は、むしろ自由主義、つまり、あいまいな言葉はあいまいなまま使う。「存在」に関しても、拙稿では、世間で使われているあいまいな言葉使いをそのまま使っていくことを原則にします。

さてその上で、拙稿では、物質も物質でないものも全部ひっくるめて、この世に存在などは存在しないのではないか、と疑ってみる。存在とは人間の脳が感じる錯覚の一種だ、と決め付けてみるわけです。少々過激ですが、この決め付けがうまく成功すれば議論はかなり単純化できるはずです。

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科学の作り・文学の作り

2007年11月13日 | x3存在はなぜ存在するのか

Eugenedelacroixla_mort_de_sardanapa 動作や指差しや視線や言葉を使って、「物が存在している」という感覚が人間どうしで通じ合えると、物質世界についての共有する経験を会話で表現し、知見を交換できる。そしてそれはだんだんと伝承的知識になり、書物に書かれ、学問として科学に発展していく。

科学は、こうして出来上がってきたのでしょう。誰もが同じように目や手で感じられる物質を測定して数量で表わし、その量的変化の法則を方程式で表わす。そうすると、目の前の物質は確かに、どれもどんな場合でも、だれが観察しても、物理化学の方程式による予想通りに変化する。そういう意味で、目の前の物質は科学が表現するように存在している、と感じられる。

しかし物質の世界にはないもの、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、などを相手に格闘したい哲学者やこういうものから作品を発想する文学者などとしては、物質を出発点にはできません。物質世界にはないこれら抽象概念がだれでも自明に理解できるはずだ、という前提で議論を始めてしまう。その言葉を相手がどう思っているかは確かめようがないのに、それは存在するに決まっているものとしてどんどん話を進めてしまう。文学に限らず言葉を使う仕事では、言葉は通じるものと前提して、どんどん使ってしまう。確かに、ふつうはそうすることが正しい。強引に自信を持ってどんどん使ってしまうことで、それらの言葉は相手に通じるようになる。この方法は強力です。逆に言えば、実体を指差せない以上、そうする以外にこれらの言葉を相手に分からせる方法はないのです。そうすることで、言葉で言っているものはしっかりと存在するかのように思えてしまう。人間の言葉は、そういう働きを持っているから、これほど簡単に通じていくのです。

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言語の対称性

2007年11月12日 | x3存在はなぜ存在するのか

こうして存在するもろもろの物質はすべて、私の視線の方向や私の関心とは無関係に、そこにある、ということを認めることができる。それを認めると、私の身体から前後左右上下に、目の前から無限遠方にまで、ここにも、あすこにも、そこらじゅうに存在する無数の物質を認めることができる。ということは結局、この世、つまりこの物質世界が存在できることになるわけです。

この感じ方は、私の感じ方という以前に、すべての人の感じ方だと分かっています。西洋の近代哲学者たちも、世界の存在を前提する前に経験で感知できるものから考えを始めるべきだ、として古典哲学の存在論と分かれて近代の観念論を作っていきました(一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』)。

こういうふうに人間は、自分が感じるというところから身の回りに広がる物質世界を認めると同時に、他人もそう思っていることを確認する。そしてそこにある物質を、会話の相手と一緒に認めることができることを確認する方法として「○○がある」という言葉を作ったのではないでしょうか? 物質世界の中に物質として○○がある、ということと、「○○がある」という言葉があることとは、互いに支えあっている。話し手が「○○がある」という言葉を発したのに対して聞き手がうなずいた瞬間に、客観的世界の中に○○が出現し、会話の聞き手と話し手は対称的に同じその世界の中に立って○○を見つめていることになる。つまり聞き手と話し手は、お互いに相手の鏡像となり、同一の内部構造を持っていて、いつでも交換可能でなければならない関係になる。それと同時に聞き手も話し手も、このひとつの世界の内部にあることとなって、これから共に○○という存在に対応して行動していくことになる。

拝読ブログ:ドイツ観念論1(カント)

拝読ブログ:tpology

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近所の奥さん→挨拶

2007年11月11日 | x3存在はなぜ存在するのか

Edelacroix1824 目の前の物質を指して、「○○がある」と言うとき、まず○○は私たちの日常的な経験側に従う物質として、いくつかの条件を満たしている。

(○○としては、たとえば、読者のパソコン、一万円札、一円玉、地球、近所の奥さん、あるいは日本の総理大臣、などを思い浮かべてください)

つまり○○は空間のどこかに位置していて、立体的な輪郭を持っていて、周りのものと同じように何色かの光を反射している。触れば温かさや、堅いか柔らかいか分かる。重心は静止しているか滑らかに動く。瞬きをしている間になくなってしまったり、数が増えたり、形や大きさが激変してしまったりすることはない(筆者の一万円札は瞬く間に消えるし、一円玉はいつの間にか殖えるが)。○○が何かに接触すれば、運動は相手の影響を受けて変化する。つまり、相手にぶつかって止まったり、跳ね返ったり、減速したりする。何にも接触しなければ、○○の動きは変化しない。

観察者が目玉や頭を動かしても、内心の念力で祈り倒しても、その影響で○○が動くことはない。逆に私たちが経験でよく知っている物質の運動法則だけで○○は動いていく。○○は、だれがどの位置から観察しているかに関係なく私たちのだれもが良く知っている現実の法則にしたがって動き変化する。だれが見ても、同一時点では同じ形に見えて、同じ動き方をするように見える。

こういう場合、私たちは○○の存在感を感じ「○○がある」と思い、聞き手に向かってそれを指差しながら「○○がある」と言う。あるいは、動作でそれを示す。そのときの聞き手の目つきを見れば、その人が私と同じように○○の存在感を感じていることが確認できる。そういう場合○○は、たしかに、客観的に、存在するわけです。

○○の存在感は、瞬時に、それに適切に対応する私たちの反射的な行動を引き起こし、それと同時に、感情ラベルを添付されて記憶に蓄えられる。近所の奥さんと会ったら(反射的に)挨拶する、とかです。こうすることで私たちは、ふたたび同じ存在感を感知したときに、ますますじょうずに適切な行動が取れるようになる。

ものが存在する、ということはこういうことです。逆に言えば、こういうこと以外に、存在の神秘的な意味などはありません。

拝読ブログ:第47話「時代劇でも桜吹雪を見れば人はたいてい素直になる。」

拝読ブログ:謎の女、仕入れに出かける。

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客観的な存在のしかた

2007年11月10日 | x3存在はなぜ存在するのか

自分が感じる存在感と他人が感じていると感じられる存在感が組み合わさって、人間は物の存在を感じている。窓の外にいる子供が「きゃあ、ミミズがいる!」と叫ぶのを聞けば、聞き手の脳は自動的に子供の目に映っているミミズの存在感を感じる。

人間が感じる物の存在感は、自分だけがその物の存在感を感じていると感じるよりも、だれもがその存在感を感じている、と言う集団的感覚が先にある。それがそのまま、その物の実在感になっています。

物の存在を感じる人間の脳のそういう機構、つまり主観的な言葉でいうところの存在感、それがすべての存在の根拠でしょう。目に見える現実の物質も、そして目に見えない錯覚などすべての存在も、存在感を感知する脳のその機構が働くことによって存在していると思えるのです。

私が目の前に見ている物質たちは客観的に存在しているらしい。私以外の人間らしくみえる物質、つまり他人も、私と同じような構造の人体という物質らしいから、彼らも私と同じように周りの物質たちが存在しているらしいと感じているらしい。あらゆる経験が、その感覚と矛盾しないから、この物質世界は、私の主観とは独立に客観的に存在しているらしい、と理屈ではなく直感で私は感じる。

このことは、自分が身体を動かしていろいろな角度から周りの物質を見回し、手で接触することでいつでも確かめられる。さらに周りの人々の行動を見聞きしたり、その人たちと会話したりすることから、毎日毎日の経験でますます直感的に確信できる。こうして、物質世界は私の主観とは別に客観的に存在できる。これ以外に、客観的物質世界の存在のしかたはありません。

拝読ブログ:ミミズ

拝読ブログ:おじさん 

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