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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

不安があると不安である

2007年11月19日 | x3存在はなぜ存在するのか

Eugenedelacroixlouisdoreans まあしかし、錯覚だから重要でない、借金は返さなくてよい、などということを言うつもりはありません。そんなことを言ってしまうと、今後一切、だれも私にお金を貸してくれなくなりますからね。私たち人間にとっては、むしろ物質世界全体よりも、心や愛や信用のほうがずっと重要です。これらが存在しないなどと言い張っていると、生きることがたいへん不便になります。だれとも、話は通じない。というか、人に対してどうふるまったらよいか、自分でも分からなくなります。ですから人間が人間として社会に生きる以上、これらが存在しないと強弁することは、やはり無理というものです。

そこで筆者は、言い方を工夫して、哲学の混乱を最小限に食い止める方法を考えてみました。たとえば、「心がある」と言わないで「心を感じる」と言う。「愛が存在する」と言わないで「愛を感じる」と言う。「悲しいものがある」と言わないで「悲しい」と言う。こう言うように、存在という言葉を安易に使うことを避ける。そうすれば、とりあえず、かなりの場面で混乱を避けられそうです。

しかし、もう一度よく考えてみると、事態はそう甘くはない。だいたい、言葉遣いというものは、簡単に変えられるものではありません。私たちが毎日使っている慣用の言語表現を勝手に制限することを提案しても、世間で相手にされるはずがない。第一、その前に、自分が舌をかんでしまいそうです。それに、「心がある」、「愛がある」、「悲しいものがある」という言い方のニュアンスは、筆者が思っているよりも、ずっと深いところがありそうです。伝統的でもある。よく分からずに切り捨ててしまってよいものか。不安がある。そういえば「不安である」と「不安がある」は同じではないでしょう。不安があると不安であるこういう微妙なニュアンスは、(駄洒落ではあるが)少なくとも文学的な価値観からは捨てがたいものがある。特に「悲しいものがある」とか「つらいものがある」とかは、だれが発明した表現か、詩的で味がある言い方で筆者は好きですね。「借りたものがある」とか「返さなければいけないものがある」とかいう言い方は、いかにも散文的だし、筆者はあまり好きではありませんがね。

拝読サイト:未成年者だけが使える借金の踏み倒し方

拝読サイト:恋が教えてくれるコト風邪

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錯覚による存在感覚

2007年11月18日 | x3存在はなぜ存在するのか

 さて改めて、今作った三個の存在のルールを書き並べてみましょう。 

『存在の第一ルール:それが、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言う』

『存在の第二ルール:存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う』

 『存在の第三ルール:第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、それが存在するとは言わない』

私たちが感じる物事に、仮に、この三個のルールを使ってみるとどうなるか?

まず物質はすべて存在する。素粒子から宇宙までこの物質世界はすべて存在する。生物はすべて、人間はすべて、存在する。もちろん、私の身体も脳も存在する。一方、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、そういうものは存在しないこととなる。脳の中で生じる錯覚だということになります。

錯覚に関しては、それがあると感じる感覚、錯覚による存在感覚、を生み出す神経機構が人間の脳の中に確かに存在する。それは哺乳類の古い神経機構を下敷きに進化した扁桃体周辺の神経回路でしょう。その神経機構は、確かに物質で構成された仕掛けとして、すべての人間の脳に存在する。しかしその機構が「存在する」と感じるものは必ずしも存在しない,と言える。したがって、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、そして私の借金は、必ずしも存在しない。目に見えないものは錯覚ですね。それは錯覚を感じる神経機構の働きで生じるだけなわけです。

拝読サイト:UNIQLO GRID

拝読サイト:大学院は必ずしも 「フリーター生産工場」ではない

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存在の三ルール

2007年11月17日 | x3存在はなぜ存在するのか

Eugenedelacroixliberte では改めて、この机が、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言うことにしましょう。これを仮に、存在の第一ルールと呼びます。

『存在の第一ルール:それが、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言う』

この方法で目に見える物質は全部存在できます。それから、目に見える物質たちから理論的に存在を証明できる物質、原子、電波、素粒子などは確かに存在することにしましょう。つまり、存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う。これを仮に、存在の第二ルールと呼ぶ。

『存在の第二ルール:存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う』

 さてここで、物質世界の中にあるのかどうかはっきりしないもの、もののけとか、心とか、愛とか、憎しみとか、私の借金、とかはどうなるのでしょうか。存在の仲間に入れてよいものかどうか。困りますね。拙稿での議論の流れから考えると、こういうものは存在しないと言いたい。だれが見ても、どう見ても確かにそこに存在する場合には存在という語を使うとしても、そうでない場合にも存在という語の使用を許してしまうと、けじめが付かない。哲学の混乱は収まらなくなる、という心配があります。

 では、ここで存在の第三ルールを作りましょう。第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、存在するとは言わないことにするわけです。ふつうの言い方とすこしずれてきましたが、ここでは、仮にそうすることにして、進んでみましょう。話を進めていくうちに、あまりおかしくなるようなら、この言葉使いをやめればよいわけです。とりあえずここでは、議論を単純にするために、こういうルールにします。

 『存在の第三ルール:第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、それが存在するとは言わない』

拝読サイト:竜退治の騎士になる方法

拝読サイト:わかった!

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世界を存在させる

2007年11月16日 | x3存在はなぜ存在するのか

だから、存在するとかしないとかを、むずかしく議論することは空しくなってくる。ただ目の前の物質世界はどう見ても存在する、としか感じられません。この世は、あまりにももっともらしく存在しています。あらゆる物理現象、生命現象、人間行動が、複雑に関連しながらも経験的な法則に完璧に従って実在しているとしか感じられない。疑いようがない自然さで動いている。このリアルさは、けっしてバーチャルとは思えない。だいたい、そっくりにリアルなバーチャルを作るのは大変ですから、この世界全体がそれだとは、とても思えない。こんなに複雑精巧に作られたバーチャルはありそうにない。この世界を見かけだけの、実在しないバーチャルな幻影だ、と強弁するのはつらい。そんな説明をしようとすると、話が複雑になりすぎる。強弁はあきらめて、これは存在すると言ってしまうほうが、話はまったく簡単になる。

ですからここは素直になって、その物質が確かに存在するように感じるときその物質は存在する、と言うことにすればよいのです。まず言葉を整理するためだけの意味で、そういう言い方を使いましょう。この場合、存在するということの意味は単純です。存在するようだ、と言える場合、それは存在することにする。これ以外にむずかしい意味を考える必要がない。

これで議論は単純になった。

 目の前のそこにある物質は、私が見てもだれが見ても、どう見ても確かにそこに存在するように感じられますから、とりあえず存在する、という言い方をすることにします。これで(語の使い方を改めただけですが)現実の物質世界が存在することになりました。

拝読サイト: リアルとバーチャルの狭間(3)

拝読サイト: 宇宙飛行士が語る宇宙のトイレ事情(動画)

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この世はリアルかバーチャルか

2007年11月15日 | x3存在はなぜ存在するのか

Eugenedelacroixmephistopheles_2 では少々過激に聞こえても躊躇せず、それで進めてみます。目の前の物質も私の身体も含めて、皆さんが存在すると思っているあらゆるものは存在しない、と言いきってみる。まあとりあえず、そこから出発してみましょう。

まず、借金の取立てに来た人が話を始めた瞬間をとらえて「そんなことよりも、まず、この机は存在するのだろうか」と言ってみましょう。「この机は私が見てもあなたが見ても、どう見ても確かにここに存在するように感じられます。しかし、本当に存在しているのでしょうか? さらに疑問なことは、私の借金というものは、この机と同じような意味で存在できるかということなのです」と暗い顔をして深刻な声で言いましょう。取立人は、顔色を変えて帰っていくでしょう。とりあえず、しばらくは返さなくてすむかもしれませんよ。

昔からこういう哲学議論はありました(一七一〇年ジョージ・バークリー人知原理論{既出}など)が、過去の偉大な哲学には深入りせず、さっと流してみましょう。

 まず、現実にそこにあるとしか思えない目の前の物質(たとえばこのパソコン)も、存在しない、ということにしましょう。目の前に物がある、という考えは意味がない、ということにします。そこにそれがある、と感じさせるような存在感が錯覚として脳内に存在するだけだ、とするわけです。つまり、万物は存在しないのに存在するかのように感じられる。その存在感を与える原因となる物理学的な法則は存在するとしても、その法則がバーチャルではなくリアルに存在するかどうかを、人間は結局のところ知ることができない。限りなくリアルらしい、というところまでは言える。しかし絶対にリアルだ、ときめつけることができない。つきつめるほど、リアルもバーチャルも、意味があいまいになってくる。こうなると、何を言っているのか、よく分からなくなってきます。

拝読サイト: リアルワールドとバーチャルワールド

拝読サイト: Earth Rise

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