まあしかし、錯覚だから重要でない、借金は返さなくてよい、などということを言うつもりはありません。そんなことを言ってしまうと、今後一切、だれも私にお金を貸してくれなくなりますからね。私たち人間にとっては、むしろ物質世界全体よりも、心や愛や信用のほうがずっと重要です。これらが存在しないなどと言い張っていると、生きることがたいへん不便になります。だれとも、話は通じない。というか、人に対してどうふるまったらよいか、自分でも分からなくなります。ですから人間が人間として社会に生きる以上、これらが存在しないと強弁することは、やはり無理というものです。
そこで筆者は、言い方を工夫して、哲学の混乱を最小限に食い止める方法を考えてみました。たとえば、「心がある」と言わないで「心を感じる」と言う。「愛が存在する」と言わないで「愛を感じる」と言う。「悲しいものがある」と言わないで「悲しい」と言う。こう言うように、存在という言葉を安易に使うことを避ける。そうすれば、とりあえず、かなりの場面で混乱を避けられそうです。
しかし、もう一度よく考えてみると、事態はそう甘くはない。だいたい、言葉遣いというものは、簡単に変えられるものではありません。私たちが毎日使っている慣用の言語表現を勝手に制限することを提案しても、世間で相手にされるはずがない。第一、その前に、自分が舌をかんでしまいそうです。それに、「心がある」、「愛がある」、「悲しいものがある」という言い方のニュアンスは、筆者が思っているよりも、ずっと深いところがありそうです。伝統的でもある。よく分からずに切り捨ててしまってよいものか。不安がある。そういえば「不安である」と「不安がある」は同じではないでしょう。不安があると不安である。こういう微妙なニュアンスは、(駄洒落ではあるが)少なくとも文学的な価値観からは捨てがたいものがある。特に「悲しいものがある」とか「つらいものがある」とかは、だれが発明した表現か、詩的で味がある言い方で筆者は好きですね。「借りたものがある」とか「返さなければいけないものがある」とかいう言い方は、いかにも散文的だし、筆者はあまり好きではありませんがね。
拝読サイト:未成年者だけが使える借金の踏み倒し方
拝読サイト:恋が教えてくれるコト:風邪