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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

その疑問は意味がない

2007年11月24日 | x3存在はなぜ存在するのか

地面が不動ではなくても、心配するほどのことはない。この世に存在などがあるかないかに、こだわることはないのです。この物質世界が存在しているという証拠はないが、まるで本当に存在しているように感じられる。自分だけではなく、人間はだれもが同じようにこの世界の存在を感じていると感じられる。その存在感は間違いなく存在する。人間のだれもがそれを共有している。それに神秘はない、それだけを知っていれば何も問題はない、存在とは何かなど、永久に知る必要はない、そういう疑問は意味がない、という考えをとっても何も不都合はありません。しかもこうすれば、余計な神秘感に悩まされることもなくなるわけです。 

拝読サイト:ガリレオ

拝読サイト:【調査】現実ではありえないから…今時の人気職業は魔法使い?

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間違った直感

2007年11月23日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_adam_e 言葉でなんと言おうと、存在しているものは存在している。それを人間が確かめられるかどうかと関係なく存在しているものは存在している、という直感が人間にはある。これは生きていくためにもっとも大事な直感です。これは、感覚入力情報を受け取ると反射的に運動信号を発生する動物共通の古い神経機構から来る直感でしょう。ここに実際にあるものたちは存在しているとしか思えない、というその感覚こそが、存在感、現実感(リアリティなどと最近はいう)という脳の機能です。この世は目に見えるように存在している。感じられるように存在している。信じているように存在する。この世界は、そのように間違いなく実在している、現実に存在している、という感覚が私たちの中にあります。それはかつての天動説のように、だれもがそうとしか思えない自明の真理のように感じられます。

 しかし天動説に固執していては、科学は進歩しなかった。存在の問題に関しても、この地面は不動ではないかもしれない、と考えてみましょう。間違った直感の上に足場を置いていることに、私たちはなかなか気づかないのかもしれない。もしそうだとすれば、その足場を不動と思い込んでいる限りは、既存の哲学がずっとそうだったように物心二元論問題心身問題あるいはその現代版のハードプロブレムホムンクルス論、クオリア論、ゾンビ論など)の周りを堂々巡りするだけになってしまいます。

ガリレオに反対した人々は、地動説を受け入れたら直感とあまりにも矛盾するから頭がおかしくなってしまうだろう、と怖れました。足元がぐらついてくる不安を感じたのでしょう。足元の地面が時速千七百キロメートルで自転していて、しかも時速十万七千キロメートルの超高速で太陽を巡って宇宙空間を移動していくのですから立っていることさえできないではないか、と思ったのです。しかし天動説から地動説に考えを切り替えても、実際、日常生活で人間の直感が困ったことになったわけではありません。それどころか宇宙ステーションに乗り込んで地球の周りを飛び回っていても、人間の頭はおかしくもなんともならないのです。

拝読サイト:映像の「時空間」を自分の手で操る~クロノスプロジェクタ~

拝読サイト:WE

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曖昧さには危険が潜む

2007年11月22日 | x3存在はなぜ存在するのか

 そういうわけで、長々と述べましたが結局、存在という言葉は、だれもが、それが存在するような気になって使っているという場合、それは存在する、ということにするとして使うしかない、という結論です。ふつうの使い方とほとんど同じですね。存在に関して先に言葉使いの三ルールなどを仮に決めましたが、それにこだわることは、もうやめましょう。ふつうの使い方でいきます。確かに存在するように思えるときは、確かに存在するという。存在するかどうかはっきりしない場合は、話の流れによって、存在するといったり、存在しないといったりする。拙稿では、そういうふうに使います。ただし、「存在」という語は、ふつうに、あいまいに使うとしても、そのあいまいさには危険が潜む。そのことに十分注意して使うことにしましょう。

拝読サイト:『〈あいまいさ〉を科学する』米沢富美子 を読んで

拝読サイト:一般「呪文」学講義 第一回

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肩こりは日本人だけ

2007年11月21日 | x3存在はなぜ存在するのか

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肩がこるのは日本人だけ」という日本では有名な謎がありますね。多くの日本人が毎日悩んでいる、ありふれた自覚症状が、日本以外の国にはまったくない、という。世界中で日本人だけが格段に人間関係で苦労しているから異常に肩が緊張するのだ、という説が唱えられたりしておもしろいのですが、まあ、そういう説は、世界をよく知らない人が言っている場合が多い。こういうものは、言葉の問題でしょう。肩こりという言葉がない国に肩こりはない。その特別な痛みを表現する言葉を知らなければ鈍い痛みは自覚できない、というだけでしょう。医者に訴えればショルダーストレインとか言ってくれるかもしれない。そんな医学用語など素人は覚えません。町で毎日話す会話に、肩こりという言葉が頻発するのは、日本だけのようですからね。肩こりの存在が先か、肩こりという言葉の存在が先か? 鶏と卵とどっちが先? 

 もし仮に、存在という語を持たない国があったら(実際そんな国はありませんが)、そこに住む人々には、世界は存在しない。自分も存在しないはずです。人類がはじめに言葉を作ったときから、存在しないものは存在しないとすればよかった。まあ、今から人為的に言葉を変えることはふつうできない。無理やり変えるのは特によくない。軍隊という言葉を禁止しても、軍隊のようなものはなくならない。それに関する言葉を使うときに変な緊張感が残るだけですね。存在すると言われるものは存在するとして、その言葉の使い方に気をつければよいわけです。

拝読サイト:外国人には肩凝りはない?

拝読サイト:ふさわしい国防体制の構築 加瀬英明

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比喩による世界認識

2007年11月20日 | x3存在はなぜ存在するのか

それが物質でなく目に見えず手で触れないものであることを知っているからこそ、人々は、比喩を使ってそれが物質であるかのように扱いたいのでしょう。だれもが、それが物質ではないことを知っていながら、比喩を使ってそれが物質であるような言い方をし、それで互いに言葉のイメージをはっきりさせて会話を成り立たせる。

こういう言葉のテクニックを、人間は大昔から使ってきた。「心が暖かい」とか「腹が黒い」とか「命を奪う」とか、「不安が広がる」とか、「信頼関係が壊れる」とか、「借金の重み」とか、私たちは物質でないものについて、まるでそれが物質であるかのように扱って話す。物質を動かす。物質を感知する。人間が共有できるその身体感覚を比喩に使って、物質でない錯覚を言い表す。このことは、人間の言語というものが、まず物質にかかわる運動と感覚を直接そのまま表わすことから始まり、次に物質でなくても共感できる錯覚を見つけ出してそれを言葉で名づけていったことを示唆しています。同時に人間は、それらが物質のように運動するという比喩を使って語り合った。それらがあたかも目に見え、身体に関する直接の運動と感知の対象である物質であるかのように語り合うことから、人間の間に物質でないものの錯覚の存在感が共有されていった。

その錯覚の共有によって、集団の中に協力ができ、人間関係ができ、社会ができていった。比喩というテクニックは、人間社会の基盤としての言語のその、系統発生個体発生を示しています。ちなみに現代の認知言語学でも、人間の世界認識における比喩の重要性が認められている(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』)。

 比喩やたとえ話など、言語技術を駆使した言葉遣いが発展してくると、社会生活には大いに便利な半面、言語の使い手である人間の世界認識が、自分たちが作ったはずの言語に引っぱられてしまう現象が起きる。言語環境で育つ人間は、比喩から来る錯覚の存在感を物質の存在感と混同して世界を認識していく。逆にいえば、その混同が人間関係と社会現象の認識に役に立つ。人間について語る場合、社会について語る場合、比喩が不可欠です。権威ある学者も、ジャーナリストも政治家も、比喩や錯覚を大いに利用して語る。現代でも、マスコミや教育など公共の場で言葉が使われるたびに、錯覚の存在感は世の中に浸透していきます。ここから哲学的な認識の混乱、あるいは感情的な人間観、自我意識の混乱、などが発生します。ですから、感性にぴったりくる優れた比喩表現こそ、危険が大きい。たとえば「世間は冷たい」、「地球は泣いている」、「日本の未来は暗い」・・・こういう言葉は青少年の世界認識に深く影響する。そのような言葉は注意が必要です。教育上は濫用しないように気をつけるべきでしょうね。

拝読サイト:客観というファンタジー

拝読サイト:先に褒め、後に判じる。(先褒後判:せんほうごはん)

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