それが物質でなく目に見えず手で触れないものであることを知っているからこそ、人々は、比喩を使ってそれが物質であるかのように扱いたいのでしょう。だれもが、それが物質ではないことを知っていながら、比喩を使ってそれが物質であるような言い方をし、それで互いに言葉のイメージをはっきりさせて会話を成り立たせる。
こういう言葉のテクニックを、人間は大昔から使ってきた。「心が暖かい」とか「腹が黒い」とか「命を奪う」とか、「不安が広がる」とか、「信頼関係が壊れる」とか、「借金の重み」とか、私たちは物質でないものについて、まるでそれが物質であるかのように扱って話す。物質を動かす。物質を感知する。人間が共有できるその身体感覚を比喩に使って、物質でない錯覚を言い表す。このことは、人間の言語というものが、まず物質にかかわる運動と感覚を直接そのまま表わすことから始まり、次に物質でなくても共感できる錯覚を見つけ出してそれを言葉で名づけていったことを示唆しています。同時に人間は、それらが物質のように運動するという比喩を使って語り合った。それらがあたかも目に見え、身体に関する直接の運動と感知の対象である物質であるかのように語り合うことから、人間の間に物質でないものの錯覚の存在感が共有されていった。
その錯覚の共有によって、集団の中に協力ができ、人間関係ができ、社会ができていった。比喩というテクニックは、人間社会の基盤としての言語のその、系統発生と個体発生を示しています。ちなみに現代の認知言語学でも、人間の世界認識における比喩の重要性が認められている(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』)。
比喩やたとえ話など、言語技術を駆使した言葉遣いが発展してくると、社会生活には大いに便利な半面、言語の使い手である人間の世界認識が、自分たちが作ったはずの言語に引っぱられてしまう現象が起きる。言語環境で育つ人間は、比喩から来る錯覚の存在感を物質の存在感と混同して世界を認識していく。逆にいえば、その混同が人間関係と社会現象の認識に役に立つ。人間について語る場合、社会について語る場合、比喩が不可欠です。権威ある学者も、ジャーナリストも政治家も、比喩や錯覚を大いに利用して語る。現代でも、マスコミや教育など公共の場で言葉が使われるたびに、錯覚の存在感は世の中に浸透していきます。ここから哲学的な認識の混乱、あるいは感情的な人間観、自我意識の混乱、などが発生します。ですから、感性にぴったりくる優れた比喩表現こそ、危険が大きい。たとえば「世間は冷たい」、「地球は泣いている」、「日本の未来は暗い」・・・こういう言葉は青少年の世界認識に深く影響する。そのような言葉は注意が必要です。教育上は濫用しないように気をつけるべきでしょうね。
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