goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類だけが使える感覚

2007年12月04日 | x3存在はなぜ存在するのか

存在感を感じさせるものは、存在する、そこにある、という考え方で世界を捉えていくと、世界はとても分かりやすくなる。たとえば、ものごとに名をつけ、言葉で世界を言い表すことができる。それが、当たり前と思える。実際、私たちは、そう思っていますね。だから、こうして言葉を通じさせることができる。

物質も人間の内面も、とにかくあるものはある。だれもがそれを同じように感じているはずだ。それらは、だれもがよく知っている決まりきった法則で動いている。物質は物質の法則で動く。人間は物質の法則が複雑に絡み合ってできているらしい生物学的、神経学的な人体の法則で動く。運命などには超自然的なところもあるかもしれないが、それらはそれなりにその超自然的な法則があって、それで動いているのだろう。理性のある現代人は、そう思っています。

それらの法則をよく知り、利用して世界を操作していくことができる。そうしてうまく生きていく。それが現代人の生き方だ。そういうことになります。この場合、何よりも重要なことは、存在する物事に関しては、自分だけでなく、どの人間も同じことを感じて同じように行動するはずだ、と思えることです。それが、その物事が現実に存在する、ということの意味です。その基準で、現実を正確に見抜く。現実の状況を見抜ければ、人々の行動をかなり正確に予測することができる。それで、現実の物事に関しては、人々と話が通じ合い協力することができる。この能力は人類以外の動物にはありません。人類だけが、存在という感覚を仲間と共有して使いこなせる動物だからです。

拝読サイト:「私が神様だったら」

拝読サイト:質量保存の法則 理解は半数 <script type="text/javascript"></script> 

コメント

存在の主張←共有の誘惑

2007年12月03日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_fountain

昔から、ふつうの人も、宗教家も哲学者も、魂、正義、あるいは神、あるいは自我、という大事そうなものについて熱心に話し、それを相手に認めさせようとして、「存在」と言う言葉を強調する。「それ(たとえば、魂)は存在する、間違いなく、あるのだ」と言う。それを言う人は、実はその場合、「それ(たとえば、魂)は、ほら、あなたも私も一緒に目の前に見えるように感じるだろう。触ると手触りがありそうに感じるだろう。私らがどう動くかとか、どう考えるかとかと、関係があるような気がするよね。ね、分かるだろう?」と聞き手に共感を求めている、ということです。そういうとき私たち人間は、「ある」、「存在する」、という言葉を使う。

「机がある」と言うとき、私一人だけが机を認めているのではなく、その言葉の聞き手も引き込んで、机を感じている仲間に入れようとしている。同じように、「バラの美しさがある」という言い方を使うと、私だけがバラの美しさを感じているわけではなくなる。聞き手も仲間に引き込んで、一緒に、バラの美しさを感じさせよう、という気迫が出ています。「悲しいものがある」というとき、「私は悲しい」と思っているだけではない何かがある。聞き手を引きずり込んで仲間として悲しい気持ちを共感させ、共有したい、という誘惑の気持ちが込められている。

拝読サイト:2007年最も検索された「ネットスラング」ランキング

拝読サイト:Christmas Partiesな週末

コメント

物質は美しいか?

2007年12月02日 | x3存在はなぜ存在するのか

もちろん科学に期待してもさらに無理です。科学こそ、目に見える物事だけから作られている。科学者が脳をいくら研究してもだめです。脳を徹底的に観察すれば、意識が見つかるのか?「悲しさ」が見つかるのか?バラの美しさが見つかるのか?

どれも無理ですね。バラの美しさを感じるときに活動する神経機構は見つかるでしょう。ですが、バラのその美しさ自身はけっして見つかりません。言葉の世界にそれを求めても無理です。美しいという言葉は美しいですか?バラという字は美しいですか?バラの美しさは、バラ自身にもなく、それを言い表す言葉の中にもなく、それを感じている私の中にしかない。過去の哲学者の著作をいくら読んでも、真実は見つかりません。バラをバラバラに、いくら切り刻んでも、原子間電子顕微鏡で分子構造を読み出しても、バラの美しさは取り出せない。それは、物質としてのバラの中にあるのではなく、バラを見ている私の感覚の中にあるからです。

拝読サイト:Pink Roses

拝読サイト:若いのに楽な仕事してんじゃねえよ

コメント

物質として存在しないもの

2007年12月01日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_charit さかんに、それをしてしまったのが、過去の言語技術者たちです。まず書き言葉が現れたことによって、言葉は身体の外に押し出され始めた。口で「悲しい」と言っているうちは、まだそれは身体で表わされている感情表現の一部分になっている。ところが、それを文字に書いてしまうと、身体から離れる。書き言葉は、書いた瞬間に読まれるのではなくて、ずっと後の時間に、書いた人が見えないところで、それは読まれる。書いたものは残る。人体は変化し続けて、やがては消滅していきます。書いたものは身体の外に残り、書いた人の身体から独立して存在していくように思えますね。言葉は、書くことで身体の外に出て行く。さらに、読むことで、さらに身体の外に出て行く。その言葉が、さらに書かれ、読まれ、書かれ、読まれていく。そのたびに、人間の身体から遠く離れていく。特に古代ギリシアから由来する西洋哲学は、近世に至って、ますます言葉を身体から外へ押し出してしまいました。

筆者は、物質として存在しないものは無視すべきだ、と言っているのではありません。存在しないのに人間が存在感を感じるものは、それだけ人間にとって大事なものだからそれを感じる。命、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、言葉、財力、お金、社会的地位・・・、こういうものは物質よりも大事と感じられる。だから大事なのです。強い存在感がある。こういうものを感じとることで人間は社会を作り、毎日の人生を生きていく。それを感じられないようなら、生きている甲斐もありません。

しかし、それらの存在の根拠を物質世界の中に見つけようとしても無理です。それらは目に見えるものではないから、物としては見つけられない。じゃあ、書物の中になら見つかるのか?偉い先生の論文や講義の中になら見つかるのか?人との会話の中になら見つかるのか?どれもだめです。言葉に期待しても無理なのです。哲学や文学に期待しても無理です。(拙稿の見解では)物質世界の中に見つけられないものを言葉で間違いなく言い表すことは不可能だからです(数学の正確性が例外的に見えることについては後述)。

拝読サイト:「進化しすぎた脳」池谷 裕二

拝読サイト:数は実在するか

コメント

内面と外界を区別する

2007年11月30日 | x3存在はなぜ存在するのか

目に見えない人間の内面は、神秘的なところであるような気がする。逆に、だれの目にも見えるこの現実の物質世界は、当たり前すぎて神秘感がない。それを私たちは、あまり意識せずに、使い分けている。人間の内面がなぜあるのか?物質でできた外界がなぜあるのか?私たちが感じるものごとが、なぜ内面と外界に分けられるのか?ふつうそんなことは、考えることがありません。人間には内面があり、それとは別に、外界がある。それは当たり前だ、と人間はだれもが思っています。しかし、拙稿の考えでは、内面と外界を安易に分けて考える常識に問題がある。

(拙稿の見解では)人間の内面と外界は別のものではない。どちらも存在感があるから、人間はそれらが確かにあると感じる。それが、だれの目にも見えるかどうか、手で触れるかどうか、というところで内面と外界は区別されている。人間の言語がそうできている。存在する、ある、という言葉は、内面のものと外界のものとを区別したり、区別しなかったり、はなはだあいまいに使われる言葉です。拙稿の見解では、こういう言葉の使い方のあいまいさから、人間の世界観、人生観、自我意識、そして哲学の混乱が始まる、と考えます。

言葉があいまいだからけしからん、と筆者は言いたいわけではありません。人間の感じる存在感がそうなっているから、言葉がそうなっているのでしょう。ただ、これを文字に書き表すときや、哲学論議に使うときには、もう少し気をつけるべきだった。

存在するという言葉を使うと、そのもとになる存在感覚は自分の身体から離れて、外界の客観的世界に属してしまう。「悲しさ」のような、せっかく私の内部に発生した生暖かい秘密の大切なものが、「悲しさがある」という言葉にすることによって、私の内部から流れ出て行って、だれもがはっきりと目に見える外部の物質たちの間にあることになってしまう。

拝読サイト:brain-control computer game

拝読サイト:健やかな隙のある人になりたい

コメント