「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、・・・」、こういう(観念的な)ものの存在感を人間は、目の前の物質や他人の人体の動きを見聞きすることで、暗黙の共感を通じて、直感で明らかに感じとる。言葉の使い方を、それが使われる場面の文脈から経験で感じ取る。子供たちは、そういう学習によってこれらの存在感を身につけていくわけです。それらは、人間が生きるためにとても大事なものです。でも、この目の前に客観的に存在する物質世界の中を探しても、そういうものは直接には存在しない。人間の脳は、こういうものを存在するものと錯覚して、目の前の物質や人体に重ねて映し出す。脳はそういう仕掛けになっている。特に自分の人体に投射します。人体に命という錯覚を重ねて見る。他人の頭蓋骨の中に心という錯覚を見る。自分の頭蓋骨の中に自分の意識や意思という錯覚を見る。
けれどもそれは私の脳がそれらを感じるように働くというだけで、目の前の物質や(他人や自分の)人体の中に、命や心や意識や自我というような、そういう神秘的なものが物質として入っているのではない。こういう心や自我というものがその物質の内部にあるように私の脳が感じるということと、実際に物質としてそこにあるということとは別のことです。
拝読サイト:映像言語 [メディア観察]
拝読サイト:ギブソンの生態学的心理学