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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

脳は錯覚を人体に投射する

2007年12月09日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_hunter2 「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、・・・」、こういう(観念的な)ものの存在感を人間は、目の前の物質や他人の人体の動きを見聞きすることで、暗黙の共感を通じて、直感で明らかに感じとる。言葉の使い方を、それが使われる場面の文脈から経験で感じ取る。子供たちは、そういう学習によってこれらの存在感を身につけていくわけです。それらは、人間が生きるためにとても大事なものです。でも、この目の前に客観的に存在する物質世界の中を探しても、そういうものは直接には存在しない。人間の脳は、こういうものを存在するものと錯覚して、目の前の物質や人体に重ねて映し出す。脳はそういう仕掛けになっている。特に自分の人体に投射します。人体に命という錯覚を重ねて見る。他人の頭蓋骨の中に心という錯覚を見る。自分の頭蓋骨の中に自分の意識や意思という錯覚を見る。

けれどもそれは私の脳がそれらを感じるように働くというだけで、目の前の物質や(他人や自分の)人体の中に、命や心や意識や自我というような、そういう神秘的なものが物質として入っているのではない。こういう心や自我というものがその物質の内部にあるように私の脳が感じるということと、実際に物質としてそこにあるということとは別のことです。

拝読サイト:映像言語   [メディア観察]  

拝読サイト:ギブソンの生態学的心理学

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不完全な相互理解

2007年12月08日 | x3存在はなぜ存在するのか

命、心、自分・・・そういうものが、物質として見つからないこと。そういうものが、私たちの内部でどのように発生するのか分からないこと。それらが何者であるかを正確に言葉で捉えることもできないこと。それは科学が未熟だからではない。哲学が未発達だからでもない。まして、それらが神秘なものだからでもない。そういうものたちの存在を正確に捉えることは、もともと無理なことなのです。そういうものたちは物質ではありません。初めから物質ではなかったのですから、この世界の中に見つかるわけはない。そして、この物質世界にないものを、言葉で正確に語れるはずはない。

この物質世界は人間が感じるものの一部であって、全部ではない、というだけのことです。命、心、自分・・・そういうものについて人間が感じる熱い存在感を、物質世界は部分的にしか受け止めることはできない。それらは感じられるけれども、物質ではない。何も神秘はない。人間の脳は、物質を視覚や聴覚や触覚で感知できると同時に、物質には対応しないそういう錯覚の存在感をも感じるようにできている、というだけです。

物質ではないそういう脳内の錯覚については、漠然とは共感できるものの、それをだれもがはっきりと共感し完全に相互理解できるような手段を、私たち人類は持っていない。人間の言葉はテレパシーではありませんから、直接、脳から脳へその内部状態を伝播させることはできない。目に見える自分達の身体を動かし、表情を駆使し、声色や身ぶり手ぶりや言葉を工夫し、互いに目に見える物質を例えに使って、想像や類推や比喩で、脳から脳へあいまいに共感を伝達する。会話やしぐさの交換によって互いの運動と感覚を不完全に共鳴させる。そうして、不完全な共感にもとづく相互理解を作っていくことができるだけです。

拝読サイト:メタファーについてのお話

拝読サイト:完全に権威主義とさよならできる百科事典の作り方

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数学の根拠

2007年12月07日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_hunter 物質でないものは、自然に作られた人間の言葉で、その存在をうまく語ることは不可能なのです。それらは、まったく語れないということではない。なんとか語れるような気はする。比喩的な言い方を使って観念として抽象的に語ることができる。ところが、その方法では、けっして正確には語れない。比喩は物質現象を例えにして、抽象的な観念を表現し、聞き手の共感を求める。それしかできない。それらは、結局は、物質世界の上に作られる模型でしかありません。自然に作られた人間の言葉は、だれの目にも見えて人類に共有された物質世界の上に作られているからです。

物質でないものでも、自然に作られた日常の言葉を使わずに、数学のように、人工的に設計された言葉を使えば、正確に語ることができる場合がある。抽象的に定義された言葉の間の関係をきれいに定型化することによって、この世にはない抽象的な空間におけるその架空の存在について論理的には完璧に語ることができる。かつて哲学の一派は、それを目指して完璧な論理を追求しました。数学を理想としてそれを手本にしたわけです。しかしそうして作られた哲学は、専門家以外には難解で、しかも実生活とは無関係な空理空論になっていく。それらは、正確になればなるほど、形式的には完璧になり、同時に物質世界からも日常の人間の感情からも浮き上がった内容の空虚な抽象になる。数学や論理学がその内容を正確に表現するためには、逆説的ですが、具体的な現実の空間や物質世界との関係を断たなければならない。なまじ物質世界に片足を置いたままで、部分的に抽象化した理論は現実との矛盾が見えてしまう。徹底的に現実から足を離して浮き上がる、つまり数学のように、その根拠を宙に浮かすことによってのみ、抽象が完全になり矛盾ない理論を作れるわけです。

拝読サイト: 考える物質 1-2諸科学の階層関係が問題だ

拝読サイト:はだかの太陽 アイザック・アシモフ

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存在の矛盾

2007年12月06日 | x3存在はなぜ存在するのか

しかし、人類のその優れた存在感覚の共有機構が、(拙稿の見解では)現代文明にとっては、ミスマッチを引き起こしている。現代人が神話から脱却して獲得した現代的な常識としての世界観と人間観は、存在感覚に起因するこの矛盾の上に成り立っている。その矛盾は日常的な常識の誤謬にとどまらず、急速に発展した科学の基礎に埋め込まれて、大げさに言えば、現代人の知識の基盤を危うくし、同時に哲学の混乱を招いています。

「あるように感じられるものはとにかくある」という素朴な考えがいけませんね。だれもが、なんとなく、それがあるように感じられたとしても、それがあるかどうかとは別の話だ、と考えなくてはいけない。人間の直感では、それを区別しにくい。しかし、違うものとして区別できなければ、存在の矛盾から逃れられません。

物質でないものを目で見る事はできない。命、心、自分、そういうものは、人間にとってとても大事なものですが、物質ではなく脳内の錯覚です。その錯覚が人々の間で共鳴することができて、共有される場合、それは言葉に表され、「それはある」とされる。しかし、それらはこの世の内部にはありません。この世は、物質だけからできているからです。物質のことは、カメラで写すことができるし、言葉で語ることができる。しかし物質でない、この世にはないものについては、言葉に語られることがあっても、(自然に作られた人間の言葉では)正確に語ることができない。絵にもかけない。文学や詩や歌や音楽では表わせるような気もしますが、実は表わせない。つまり、物質に対応しない錯覚は、みんなで共有できたとしても正確に表すことはできない。

拝読サイト:テクスト(2)自然科学と人文科学と哲学との関係

拝読サイト:[日記]言葉はデジタルなもの。だから、アナログな心を表現しきれない。でも、言葉でしか表現できないものがある。

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存在感の感知機能

2007年12月05日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_graces ちなみに現在の脳神経科学では、存在感を発生するこの脳の機構は解明されていません。拙稿の予想では、たぶん、この機構は、感覚刺激に対応する運動準備(身体運動の実行計画形成)のための(無意識の)神経活動によって大脳皮質(および小脳)で発生する神経信号が大脳基底部(大脳基底核視床扁桃体)の神経回路に送信されて感情を誘発する神経活動に対応しているのでしょう。

いずれにせよ、人類という動物は、存在感の感知機能を仲間と共有し、それを使いこなすことで、身の回りの世界や仲間の行動の変化をかなり正確に予想する。他の動物のように瞬間の反射行動だけに頼ることなく、(無意識のうちに)過去の経験を思い出し、今後のことを予測して、落ち着いて計画的に行動する。成人した人間は、存在感を持って感知した世界の経験から現実の変化を予測する(無意識の、暗黙の)理論を身につけています(石は触ると固い、とか)。

そういう理論を身につけることで、成人した人間には、世界の物事の基本的な法則がはっきり明瞭に分かっている。世界がどうなっているか、現実がよく分かる。自分がこれから何をすれば良いかも、よく分かる。これは、大人の人間が、現実の物事を把握する存在感の感知機能を身につけているからです。進化によって洗練されたこの存在感感知機能は、人間の行動を生存繁殖によく適応させている。この存在感(という錯覚)を生み出す脳の仕掛けを群集団として共有したことで、(拙稿の見解によれば)人類は全地球を制覇しました。

拝読サイト:扁桃体 

拝読サイト:空気を読むな!

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