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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在感の共有を固定→言語

2007年12月14日 | x3存在はなぜ存在するのか

脊椎動物が数億年かけて進化した結果、哺乳動物の脳は体外の物質現象や体内の神経活動に起因する神経信号を感知して、ものごとの存在感を感じ取れるようになった。人類を含む哺乳動物の脳においては(拙稿の推測では、たぶん大脳基底部で)ものごとを識別する神経活動が起こり、それらを存在するものごととして記憶できるようになる。人類の場合は、さらに仲間の人間が感じる存在感を互いに共感し、動作や発声や表情などの運動を共鳴できるようになった。人類は、だれもが同じように感じられるその存在感の錯覚を共有してうまく利用し、信頼感を持って安定してそれらを使いこなせるような言語体系を開発し、その上に能率のよい社会を作った。

人類の言語の原型が作られたのは十数万年以上前と推定される。言語は、存在感の共有を固定する働きを持っているため、人々の間で世界の物事は安定して存在できるようになった。その働きで、言語は人類の生存適性を飛躍的に高め、人類の棲息地は地球全体に拡大した。

そこまではうまくいったが、その後、言語による存在感の固定は破綻する。最近数千年くらい前から、文明が作られ、哲学や科学というものが作られて、存在感と言語体系の矛盾を見つけてしまったことによる。

自然が行き当たりばったりに進化した結果としてできあがった脳の仕組みは、どうしても全体としての整合に欠ける。数百万年かけて、原始人類の脳が進化して存在感覚を共有化する神経機構を獲得してくるとき、後の時代で人間が哲学や科学のような論理的なものを始めることは問題にされるはずがない。つまり、人間の脳は、まじめに哲学されると矛盾が見えてしまうように進化してしまった。特に、存在感という感覚がそれであり、それにもとづいて作られた言語体系がそれです。人間は物質世界に存在感を感じ取ってその共感を共有し、それの上に言語を作り、さらにその上に科学を作る。同時に人の心にも存在感を感じ取ってその共感を共有し、それの上に言語を作り、さらに心の理論を発展させる。科学と心は別々の理論を作っていき、統合することができません。哲学者や科学者たちは、その矛盾を心身二元論の神秘と感じてしまう。

拝読サイト:匂いをかがれる かぐや姫

拝読サイト:脳研究の最前線

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物質と精神の非整合を発見

2007年12月13日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_jsalome こういうことは、人類の言語ができたころの大昔、十数万年前の素朴な原始人たちには神秘ではなかった。つい百年くらい前まで世界各地に残っていた狩猟採集社会の人々にとっても、物質と精神の両方が、たぶん、問題なく共存していたはずです。そこには、むずかしい哲学はなかった。宗教の教義もなかった。

ところが、農耕社会が作られ、文明が文字を発明し、さらに技術が都市社会を作ってしまった最近のこの数千年の、つまり有史以降の、知識人たちが、物質と精神の非整合を見つけてしまった。それを神秘と感じるようになった。雄弁な人たちが、それを、大変な問題なのだといって人々に語り続ける。それで宗教の教義ができ、哲学ができた。宗教や哲学が提起するこの神秘の謎を、理性によって解こうとして科学ができてきた。ところが、科学が自然を解明すればするほど、心の謎は深まるばかり。現代の私たちにとっても、こういう話は、ますます神秘的に思えるわけです。

この現象は、人類が存在感覚(存在感の錯覚を共感する感覚)を身につけて使いこなしてきたいきさつを観察することで、よく理解できます。

拝読サイト:人類は文明によって自らを破滅させている

拝読サイト:人生を自然に学ぶ その3

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科学者の神秘

2007年12月12日 | x3存在はなぜ存在するのか

一方、哲学などに興味のないふつうの人々の生活感覚では、物質と精神と両方が存在することは当たり前です。日常の常識として、それはそれでよい。経済も科学も社会も、こういう現実感覚(心身二元論)を持ったふつうの人々によって、毎日、問題なく動かされている。物質は間違いなくここにあって、科学が明らかにする自然法則にしたがって変化するだけだし、一人一人の人間にはそれぞれの心があって、それの働きで人間は動いている。それは当たり前すぎて、何とも思わない。それがふつうの現実感覚というものです。

しかし先に述べたように、この現実感覚は、厳密に論理をつきつめると矛盾していることが分かる。そこで哲学者や科学者など論理に敏感な人々は、そこに神秘を感じてしまう。たとえば、自分がふつうの物質でしかない、とか、自分がいつか死んでしまう、とかいうことの意味が、考えれば考えるほど、さっぱり理解できない。それを神秘と感じる。そうすると、この生き生きとした現実はいったい何なのか、目の前の現実の存在感が揺らぐ。あるいは、物事を感じている自分というものの存在感が揺らぐ。そこに恐怖や不安を感じる。立派な科学者が、ふつうの人以上に、こういうところに神秘を感じている。

旧来の哲学は、このことを神秘だと教えてきました。しかし(拙稿の見解によれば)それは間違いです。

拝読サイト:ガリレオって知ってる?ガリレオ裏事情

拝読サイト:個人神話の時代~『神話と日本人の心』河合隼雄

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(心身問題)問題

2007年12月11日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_hunter3 ところが最近、この数千年くらいのことですが、人間が哲学のようなことを思いつくようになってから、困ったことが起きた。直感で感じるこの錯覚の存在感をそのまま受け入れて、物質世界は実在し精神も実在する、として論理的に考えを進めると心身二元論になる。身体は確かに存在し、同時に心も確かに存在する、ということになる。

身体は物質だから物質ではない心に影響を与えることはできない。心は物質ではないから物質である身体に影響を与えることはできない。互いに無関係な存在だということになる。身体が死んでも心は残るはずだ、とか、心が身体を動かすことはできないはずだ、とかいうことになる。この世には互いにまったく無関係な物質と精神と両方が存在する、というおかしな話になってしまう。

この矛盾は昔から問題にされていましたが、科学が発展するほど、かえってますます不可解な謎に思えるようになってしまいました。最後まで科学が解けない問題だろう、ということで、今では現代哲学の中心的なテーマといわれるようになっています(たとえば一九八九年 コリン・マクギン『心身問題は解けるのか?』)。認知科学や脳科学などを研究している科学者の間でも、ハードプロブレムホムンクルス問題、クオリア問題、ゾンビ問題など種々の切り口でこの問題が提起されていますが、どれも現代科学が解明できそうもない絶望的にむずかしい謎とされています。

拝読サイト:  哲学者は何を考えているのか (現代哲学への招待Basics)

拝読サイト:心脳問題について

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心はどこにある?

2007年12月10日 | x3存在はなぜ存在するのか

物質の中に物質でないものがあるということはおかしいから、それらを混同した話は意味がない、ということになる。ところが、「脳は物質だから物質でない心が入っているはずがない」と言うと、「じゃあ心はどこにあるんだ。ふしぎだ。神秘だ」と言われます。しかしこのことは神秘ではない。なんでもないことです。このことを神秘と感じることは錯覚です。それを神秘と感じるように人間の脳が作られているということと、それが神秘だということとは違う。天動説が間違っていたように、人間の直感は間違う。

人間は心の存在に神秘を感じる。人の心というものは、犯しがたい尊厳を持っているように感じられますね。それは間違いありません。私たちのだれもが、そういう感覚を持っています。人間の脳はそう感じるようにできている。けれども、その感覚は錯覚です。その錯覚を頼りに「人間の心には神秘が存在する」と主張することは、間違った考え方です。

人間は、この物質世界が客観的に存在しているように感じる。同時に、この物質世界に無数にある人体それぞれに、それぞれの心が入っているように感じる。自分にも心があり、それが周りの世界を感じて、自分のこの身体を動かしているように感じる。人体という物質、脳という物質の内部に、心という目に見えないものがある、ということに神秘を感じる。

筆者も直感では確かにそう感じます。しかしこういうことは全部、脳が感じる錯覚です。こういう錯覚を感じるように人間の脳は進化してきた。この仕組みが人類の生存と繁殖に有利だったからです。この仕組みを使って、人類はじょうずに仲間と協力し、言語を作り、社会を作って繁栄してきた。

拝読サイト:『蠅の王』感想 / 人間の本質は「獣」という側面について

拝読サイト:お腹いっぱい脳いっぱい - 書評 - 脳研究の最前線

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