goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

説明できない

2007年12月19日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_lucret_2 じゃあ、赤ちゃんの内面は想像できるか? これはまさに難問。自分が一歳児だったころを思い出そうと懸命にがんばってみましょう。無理やりにつぶらな瞳をつくって「アブアブ」と言ってみる。一歳児になったつもりで、世界を見渡してみましょう。できますか? 一生懸命に赤ちゃんを育てているお母さんでも、実はむずかしい。これが本当にできるなら天才ママです。

じゃあ、認知症の老人の内面はどうだ? 家族の顔も分からなくなるらしい。新生児に戻るようなものか。自分がなったときに備えてぜひ知りたいものですが、やはり想像はむずかしい。同じ人間でも、赤ちゃんや認知症の老人の行動を観察すればするほど、大人の正常人には、その内面をはっきりとは想像できないことが分かる。

人の内面を想像することはむずかしい。できないのが当たり前ではないでしょうか? 私たちはなぜ、それができないと思ったり、できると思ったりするのか。人の内面を想像することができると思っても、できないと思っても、結局そういう話全体が全部直感を使った想像の上に作られている。この事実は重要なことです。

人の内面が分かったとしても、その分かったことは言葉で説明できるものではない。心が分かる、という話を私たちは世の中では毎日していますが、それは、そんな気がする、とか、そう言ってみたいから言う、とか、あるいは、そう言うと会話がうまくいくから言う、という程度の覚悟で言っているに過ぎない。論理をつきつめるつもりなどない感覚的な話です。こういう話はまじめにつきつめるほど、論理がぼけてくる。何を話しているのか、よく分からなくなる。結局私たちは、自分が直感で感じることしか、はっきりと知ることはできないわけです。その自分が感じることでさえも、内面で感じることは言葉ではうまく説明できません(現代哲学ではこういう話が、いわゆる主観問題、クオリア問題としてまじめに論議されている。たとえば、一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出、一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出など)。

拝読サイト:せいかくのちがい

拝読サイト:認知症ケアで大事な3つのこと

コメント

私がチンパンジーであるとは?

2007年12月18日 | x3存在はなぜ存在するのか

じゃあ、チンパンジーも私と同じように世界を感じているのか? ロボットはどうだ? と聞かれる。私は、チンパンジーやロボットになった気持ちで想像してみます。しかし、そういう想像は、うまくできません。私たち人間はチンパンジーやロボットにはうまく憑依できないという気がします。私がチンパンジーであるとはどういうことか? ロボットであるとはどういうことか? こういう質問文は言葉では言えても、何を意味しているのか、よく分からない。こういう質問をする人の気持ちはなんとなく分かるような気がするが、改めて意味を考えてみると、何を聞かれているのかさっぱり分からない、という質問です。

チンパンジーになったときの気持ちとか、ロボットになったときの気持ちを想像するのはむずかしいからでしょう。せいぜい人間の範疇でないと無理なようです。たとえば、年寄りの筆者が高校生の気持ちが分かるか? まあ、高校生の顔や動作を観察しながらがんばれば分かるような気がする。しかしながら、男子高校生と女子高校生とどっちが分かりやすいか? 日本のではなくて中国の高校生の気持ちなどはどうだ? といろいろ詳しく聞かれていくと、だんだん分からなくなる。結局、よく分かりません、と言って逃げたくなる。

拝読サイト:チンパンジー、コンピュータ頭脳テストで大学生を破る。猿の惑星に一歩(動画)

拝読サイト:ロボットの進化・歴史を詰め込んだ映像集2007

コメント

直感で正しい≠説明できる

2007年12月17日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_judith2 本当かと問い詰められると、本当のところは知る方法がありません、と言うのが正直な答えになる。理論でも実験観察でも実証はできない。自分以外の人間の頭の中のことは、想像することしかできませんからね。私の隣にいるA君も私と同じように世界を感じているのか、と質問された場合、私は自分がA君の頭の中に入ることを想像する。まあ、それは想像できます。でも、目をつぶって想像するだけではよく分からない。答えは出ない。私はそこで目を開けて、A君の顔をながめてみる。A君の動作を観察する。さらに会話してみます。そうすると、答えがはっきり分かる。A君も私とまったく同じように世界を感じていることは間違いない。その答えが正しいことは確信できます。しかし、問題は、それが正しいことを言葉で説明できないことです。A君も私と同じように世界を感じているに違いないだろうと確信はできる。しかし、そのことを言葉で証明することはできない。正確に説明することもできない。ただ、直感で正しいと確信できるだけです。直感で正しいと感じることと、それを言葉で説明できるかということとは違う。ここは重要なところです。

さてとりあえず、ここでは直感を認めて、A君も私と同じように世界を感じているに違いない、として先に進みましょう。

拝読サイト:非言語的直感

拝読サイト:A君との会話のメモ

コメント

科学の理論→心の理論

2007年12月16日 | x3存在はなぜ存在するのか

私たちは物質世界が客観的に存在するように感じる。同時に私たちは物質世界にはない感情や「他人の心、自分の心、・・・」というような錯覚の存在感も感じる。

その物質世界の中に私の身体があるように感じる。というか、疑いようもなく、ある、と思っている。その身体の中の物質としての私の脳がその物質世界を感じているように感じる。これはたぶん、脳に関する知識と経験からそう感じるのでしょう。

また周りの人間の動きを見て、周りの人も私も同じように、物質世界にはない感情や他人の心、自分の心というような脳内だけの錯覚も感じる機構を備えていると感じる。

そういうことは神秘でもなんでもない。ただ私たちは直感で仲間の人間の内面の存在とその動きの存在感を感じるし、それによる共感によって物質世界の客観的な存在感を感じます。同時にその物質世界の存在感に基づいて、物質としての私たちの脳の機構を科学的に推測すると、直感でそう感じるだろうと思われる神経機構がそこにあることは理解できる、ということです。

私以外の人間が、本当に私と同じように世界を感じているかどうかを、私は直接に知ることができません。でもそう感じているに決まっている、と私は直感で感じます。人の動作を見たり発言を聞いたりすると、私に内面があるのと同じように彼らにも内面があり、私が内面で感じるのと同じように彼らも内面で感じているはずだ、と直感で感じるからです。また生物としての人間は全員ほぼ同じDNA配列(ゲノム)から作られていますから、科学の理論で考えても、(入力が同じ場合)システムの内部構造がシステムの状態を規定する。つまり、同じ内部構造の物質システムである他人と私の身体と脳は、それが置かれている物質世界の状態に対応して同じような運動や生理学的活動をするだろうと推測できます。ここから心の理論ができる。つまり、人間はだれでもが物事を同じように感じるだろう、という気がするわけです。

拝読サイト:脳の記憶と心の思い出!?

拝読サイト:「美には生物学的な根拠」彫刻作品と脳の働きを実験

コメント

魔法のゲノム

2007年12月15日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_judith 人間の脳は、すばらしい性能で人の心を読む。人でないものの心まで読む。ベテランの漁師は海の色を読み、魚群を見つける。達人の相場師はマーケットの気配を読み取る。その神経機構の設計を、コンピュータを使って実現することは、天才プログラマーでも無理でしょう。人間は驚異的な精度で仲間の心を読む。仲間が感じる錯覚を共感する。共感するものの存在感を、すばらしい速度で学習し、体得する。そうして仲間で共有するその錯覚は、確固として存在することになっていく。これほど確固として存在感を感じさせるものは、物質と同じように存在しているとしか思えない。そういう感覚を持つことは、人間が仲間とともに社会的に生きるために重要な能力だったのです。進化が設計した脳が発揮する機能は、神秘的と感じさせます。人間が持つ、存在感を共有する能力。その能力にもとづいて作られた人類特有の仕掛け。たとえば、社会組織、あるいは言語。そもそも人間がものごとの存在を感じられる、ということ。それを感じられるということを感じられる、ということ。そして人の心の動きが分かる、ということ。それらの事実が存在すること自体、たしかに神秘的です。

しかしそれは、一億円の宝くじに当たってしまった人が抱く神秘感のようなものでしょう。宝くじに当たった人が、「一億円のくじに当たるためには、その朝シナモンティを飲めばよい」などと自分の体験を書いた本を読んで、自分も朝のシナモンティを実行すれば一億円が当たると思うのは、まったくの間違いでしょう。ただし、書いた人は本気でそう信じている。魔法のシナモンティは、その人にとって、はっきりとこの世に存在するのです。一億円(あるいはそれ以上)の宝くじをあてた人が本を書けば、必ずその魔法のティについて語るはずです。人類のだれもが一億円よりずっと当選確率の低い(人体の設計図である)DNA配列(ヒトゲノム)のくじを引き当てているのですから、それから作られた人体そして脳の性能の神秘的すばらしさに酔うのは当たり前でしょう。人間にとっては、魔法の命、魔法の心、魔法の自分、がはっきりとこの世に存在するのです。

今日もM銀行の入り口の宝くじ売り場には「出ました!一億円。億万長者!」という派手な張り紙が掲げてあります。おじさんおばさんが列を作っています。宝くじが売り出されれば、だれかに一億円が当たり、その人は自分の特別な人生の神秘感に酔い、その神秘の答をその朝あの魔法のシナモンティを飲んだからだ、と思い込む。魔法のDNAによって神秘を感じさせるような脳を備えた身体を与えられてしまった現生人類がする哲学や宗教は、そのシナモンティの神秘について畏敬の念を語る。一億円が当たってしまえば、そう思いこむほうがあたりまえです。しかし、シナモンティと一億円が関連しているという考えは、間違いなのです。

この間違いに気が付けば、哲学の諸問題は堂々巡りから脱出できます。

拝読サイト:年末ジャンボ宝くじ

拝読サイト:日記/今はまっているお茶

コメント