じゃあ、赤ちゃんの内面は想像できるか? これはまさに難問。自分が一歳児だったころを思い出そうと懸命にがんばってみましょう。無理やりにつぶらな瞳をつくって「アブアブ」と言ってみる。一歳児になったつもりで、世界を見渡してみましょう。できますか? 一生懸命に赤ちゃんを育てているお母さんでも、実はむずかしい。これが本当にできるなら天才ママです。
じゃあ、認知症の老人の内面はどうだ? 家族の顔も分からなくなるらしい。新生児に戻るようなものか。自分がなったときに備えてぜひ知りたいものですが、やはり想像はむずかしい。同じ人間でも、赤ちゃんや認知症の老人の行動を観察すればするほど、大人の正常人には、その内面をはっきりとは想像できないことが分かる。
人の内面を想像することはむずかしい。できないのが当たり前ではないでしょうか? 私たちはなぜ、それができないと思ったり、できると思ったりするのか。人の内面を想像することができると思っても、できないと思っても、結局そういう話全体が全部直感を使った想像の上に作られている。この事実は重要なことです。
人の内面が分かったとしても、その分かったことは言葉で説明できるものではない。心が分かる、という話を私たちは世の中では毎日していますが、それは、そんな気がする、とか、そう言ってみたいから言う、とか、あるいは、そう言うと会話がうまくいくから言う、という程度の覚悟で言っているに過ぎない。論理をつきつめるつもりなどない感覚的な話です。こういう話はまじめにつきつめるほど、論理がぼけてくる。何を話しているのか、よく分からなくなる。結局私たちは、自分が直感で感じることしか、はっきりと知ることはできないわけです。その自分が感じることでさえも、内面で感じることは言葉ではうまく説明できません(現代哲学ではこういう話が、いわゆる主観問題、クオリア問題としてまじめに論議されている。たとえば、一九七四年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどういうことか』既出、一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出など)。
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