こういうように、世間によく言われている神秘(天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神など)は、実際にあるとはいえないし、だれも知り得ない(不可知論的な)神秘というものも、実はない、ということになると、この世のどこにも神秘はないことになります。昔の賢人はそう考えた、と思われます。
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こういうように、世間によく言われている神秘(天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神など)は、実際にあるとはいえないし、だれも知り得ない(不可知論的な)神秘というものも、実はない、ということになると、この世のどこにも神秘はないことになります。昔の賢人はそう考えた、と思われます。
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つまり(拙稿の見解によれば)何らかの物事がある、ということは、それを仲間と一緒に見ることができる、それに関して皆が一緒に何らかの働きかけをすることができる、ということです(拙稿24章「世界の構造と起源」)。そうであれば、だれも知り得ない何かがある、ということが起こるはずはありません。もし、だれも知り得ない何か神秘的なものがある、と思えるような気分になったとしても、それは錯覚あるいは曖昧性というべき事柄でしょう。逆に、神秘といわれているものの多くは、このような錯覚あるいは曖昧性が絡んでいて、仲間が皆いっせいに何事かを見たような気分になっていて、しかもそれが何事かは朦朧として明らかではない、というような場面で起こるようです。
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そもそも未知の未知がある、という言い方はおかしい。そう言いたい気分は何となく分かりますが、よく考えると、この言い方は何も表していません。人間が知り得ない何かがあるはずだ、という言い方は、その言葉の使い方に無理があるからです(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。「知る」とか「ある」とかの言葉の使い方が間違っています(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
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人間は(拙稿の見解によれば)だれも、自分が知らないことはたくさんあると思っています。その未知のものに、恐れや神秘を感じることは多いでしょう。そうであれば、この考え方が広く語られているのはもっともだと思われます。しかし広く語られているからといって間違いがないとはいえない。世間でよく語られるこのような不可知論もまた(拙稿の見解によれば)、実は間違いです。
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一方、人々の語っていないところに実は本当の神秘がある、この世のどこかにだれにも知ることができない大きな未知がある、あるいはこの世で最も大きな未知を人間は知ることができない、というような考え方(不可知論という)もあります。考え方というよりも、だれもがそう思う、といってよいでしょう。これは、むしろ当たり前の考え方といえます。
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