goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類の感じとる現実

2010年03月10日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_lemarcheauxesclavesarabia

私たちが感じとれるものは、それを感じとることで仲間と気持ちが通じ合い、協力が進むことで生活と繁殖に役に立つから、それらを感じとる。そう感じとるような身体になっているからです。私たちがある物事を感じとれるときは、私たちのだれもが、その動きを予測できてその動きに身体が反応できるときです。十分な信頼性をもって動きの予測が可能なときです。

そうでない物事は感じとる必要がない。感じとらないほうが無駄を省けます。仲間とともにしっかり予測できない物事は感じないほうが安全で、しかも無駄がなく、便利なのです。生物の繁殖に役立たない無駄な機能はその生物の身体から消えていく。人類の感じとる現実についても、生き残るために適切な行動を取るために不可欠な物事を認知する機能だけが私たちの身体に備わっているはずです。

拝読ブログ:私にできること

拝読ブログ:爺様ブログ ~英雄オンライン~ マナー②

コメント

直感と矛盾する哲学

2010年03月09日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

その結果、人類は地球の隅々にまで拡がって大繁栄しました。しかしまたその大繁栄のおかげで文明が発展し、人類はついに宗教や哲学まで作ってしまう。そうして最後に科学まで作ってしまった現代人は、混乱した哲学に投げ込まれることになりました。

宗教や哲学や科学は、この世の物事を矛盾なく説明しようとする。そうすると、人間の身体に備わっている直感と矛盾する。この世の物事はみなそれぞれの気持ちを持って動いている、と私たちの直感は感じます。しかし、この直感はすぐ矛盾に突き当たる。この世には、実際、気持ちが通じないものや気持ちが悪いものがいるという矛盾。自分の気持ちが自分の外側にあるものに伝わらないという矛盾。死んでしまうと気持ちが伝わらなくなるという矛盾。

そういう矛盾に毎日突き当たる。そのことを説明しようとする哲学は、結局は、矛盾に巻き込まれて混乱していく。

拝読ブログ:脳は直感している

拝読ブログ:大粒の雪が……気持ちを変えると…風情がある景色ですッ!

コメント

人類の精緻な社会集団

2010年03月08日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_lemarcheauxesclaves

身体が痛くなったりする不快な感覚は認めたくない。まずい食べ物は認めたくない。冷たさをいつも感じているのはいやだから、どこまでも客観的な冷たい科学は認めたくない。私が買った宝くじが外れてしまうことも、自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、受け入れたくないのです。

それらは、人類がうまく生活するために便利なように進化した身体の仕組みの働きです。そのおかげで私たちはうまく生き抜いていかれる。仲間とすっかり気持ちが通じ合う。通じ合うことしか受け入れないからです。こうして、私たちは仲間と協力して精緻な社会集団を作れるようになりました(二〇〇九年 トマゼロ、ドウェック、シルク、スキルムス、スペルク『なぜ私たちは協力するのか?)。

拝読ブログ:マックスウェルの悪魔つかまえた?/自宅で作れる(?)エントロピー法則の「破り方」

拝読ブログ:面接 話し方

コメント

気持ちが悪い物事

2010年03月07日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

この世の物事はみな、それぞれの気持ちを持って動いている。私たちの身体はそう感じる。それぞれの気持ちは、私たちとの間で通じ合う。気持ちと気持ちは分かり合うことができる。それで私たちは安心してこの世界の中を動いていける。

私たちとの間で気持ちが通じ合わないものは、あってはならない、不可解な気持ちが悪いものである、と感じる。そういう不可解なものは認めてはならないものである。私たちの身体はそう感じるから、自分でその気持ちが理解できないものは認めたくない。

自分を嫌いな人は認めたくない。自分の居場所がない社会は受け入れられないし、自分がいなくなった後の宇宙は認めがたい。そういう不可解な物事は避ける。気持ちが悪いものからは逃げる。追い払う。かかわらないようにする。目をつぶる。無視する。そうするように私たちの身体はできています。

拝読ブログ:アバター

拝読ブログ:パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々

コメント (2)

気持ちの情報処理計算

2010年03月06日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_kingcandaules_2

目的認知機構の情報処理計算は次のように行われるのでしょう。たとえばPという状況を目的として、それを達成できる行為Qを対応させる。さらにQができるような状況に到達するための行為Rを対応させる。たとえば、新幹線に乗るために東京駅まで地下鉄で行くことにする。地下鉄に乗るために地下鉄駅までバスで行くことにする、というような場合です。こうして、目的概念はP→Q→Rというように状況空間の探索として行為の連鎖に展開される。同時に逆向きに、R→Q→Pという行為の連鎖によりRの目的概念Pが認知される(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ心の大規模モジュール構造モデル擁護論』既出)。自宅から出てバスに乗って地下鉄に乗って新幹線に乗る。この一連の行為で、この人がバスに乗る行為の目的が分かる。この人は東京を離れて遠くへ旅行しようとしている。その気持ちが分かります。

私たちが見ている世界の中で、目に見える物事はことごとく、ある目的を持って動いている。目に見えることばかりでなく耳や皮膚や身体の奥のほうで(体性感覚で)感じられる物事も、そうだと思えます。すべてはそれぞれの目的を持って動いている。そうであれば、私たちにとっては、その目的がそれらの物事が持っている気持ちのようなものを表しているといえる。

拝読ブログ:”超”な事

拝読ブログ:ブラジルの忘れ物 その1

コメント