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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実と自分との不可解な関係

2010年03月15日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

うまく仲間と共有できないような、自分だけが感じているような感覚は、気味が悪く、あってはならない、と私たちは感じる。私の身体の奥の、はっきりしないところのかすかな痛みだとか、親しいはずの人たちとどうもうまくいかないとか、そういうあるのかないのか分からない感覚は、気持ちが悪い。私の気持ちなのか、私の気持ちではないのか、よく分からないのです。それらの感覚は、それをどうすればよいのか、何を目的にしてそれを感じとればよいのか、私たちは分からない。したがって、言葉にすることができない。しかしまた、未開人と違って個人的な内面の感覚にこだわる現代人は、こういう物事も、どうも自分の気持ちだとしか思えない。

そうだとすると、はっきりと存在する現実世界と、なにか分からないもやもやとしたところが多い自分の内面との関係がまた不可解、ということになる。それから、混乱した哲学が続く。

拝読ブログ:人間の思考は、あたかも逆行するが如き感覚を伴ひつつすすむ。(夕ぐれと夜との言葉)

拝読ブログ:ショタコマ

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現代人特有の哲学的疑問

2010年03月14日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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私の不幸に、私の運命に、何の責任も感じてくれなそうに見えるこの社会は、いったい何なのか? 私の宝くじはなぜいつも外れるのか? だれかが私にいじわるをして、宝くじを外れさせているのか? という疑問にならない疑問が心の底でくすぶるわけです。さらにこの自分自身に関係がなさそうなこの大自然とは、何なのか? 私の歯の痛みに全然関心を持ってくれないように見える、この大自然はいったい何なのか? 

科学でのみ予測できるように動いているこの物質世界。何の目的も持っていないような大自然は何のためにあるのか? 塵のような地球は何の目的を持って宇宙に浮かんでいるのか? その宇宙と自分との関係は何なのか? この自然世界の中での自分とは何なのか? それにしても自分はなぜ宝くじに当たらないのか? 他の人がなれて、なぜ自分はお金持ちのセレブになれないのか? というような哲学的な疑問が現れてくるわけですね。未開人にはない現代人特有の疑問です。

しかしそうなると、(拙稿の見解から言うとすれば)そこからもう哲学は間違っていく。答えのない疑問を繰り返す世界に入ってしまう。現代人のそれら哲学的な疑問はニセの疑問です。だが、それに気づく人は少ない。

拝読ブログ:まーるい地球

拝読ブログ:就活を途中でやめた僕が就活について語ってみる件

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現代人の二面性

2010年03月13日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

部族の仲間とともに生きる未開人の場合、仲間と共有できないものを感じとることはないでしょう。しかし、自我概念が発達した現代人の場合、仲間と共有できない自分だけの気持ち、というものをも概念化する。共有できないものまでを自分の気持ちだと思い込んでしまう。私の内面、私だけの内心、という概念です。

そうなると、外面と内面、見せ掛けと本音、という二面性、その違和感が、社会に対する漠然とした不信感にもなる。

自分の気持ちというものは何なのか? この社会の中での自分とは何なのか? この社会はなぜ私の希望に無関心なのか? この社会はなぜ私に冷たいのか? 私たち現代人はそう思うようになる。 

拝読ブログ:春の日に

拝読ブログ:違和感

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人と共有できない感覚

2010年03月12日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_marabou

そうであるとすれば、私たちが感じとる自分の気持ちというものは、仲間の気持ちとの共鳴による共有ができるから感じ取れるものであるはずです。それは、人間どうしが共有できる気持ちであるからして、当然、共有できるものに限定されています。逆にいえば、私たちは、仲間と共有できないものは自分の気持ちとしても表すことができない。

たとえば、私の背中の微妙な痒さなどは、自分の気持ちとしてきちんと感じることがむずかしいところがある。実際、痛覚の感受性などは個人間の差異が科学的に実証されている(二〇一〇年 ローラ・サンダース『痛覚に相関する遺伝子 共通遺伝変異が一部の人々だけを過敏にする』)。

同じレベルの感覚を持てなければその感覚を共有することは難しいでしょう。またコンテキストに依存するさらに複雑な感情、たとえば親しいはずの人に対する不信感、嫉妬なども、人と共有できない場合が多い。こういう感覚をなんとなく自覚したとしても、それが自分の気持ちであると思うことはむずかしい。あるいは、仲間の感覚とのずれを自覚してしまう。そういうところから、私たちは、仲間になじめない感覚を持つこともある。

拝読ブログ:日記的な何か

拝読ブログ:痛覚をマヒさせる修行(笑)。 

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それを現実だと感じる

2010年03月11日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

だから私たちは、仲間の人間と共有できないような感覚はしっかりとは感じとれない。私たちがしっかりした現実感を伴って感じとれる物事は、仲間と何度も繰り返し共有できて、ともにそれを現実として対応できることだけです。十分な信頼性を伴ってそれを感じ取り、それに対応した行動をとることができたときだけ、私たちはそれを現実だと感じる。

そうして感じとった現実を仲間と共有することで、私たちはリアルに生きていける。現実世界で、毎日努力し、仲間と協力し、勝負に勝ち、生き残ってゲームを続けていける。

拝読ブログ:昔の家の機能性・・・可動式階段

拝読ブログ:おウチで もんじゃ焼き

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