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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人の視線が世界と自分を作る

2007年05月14日 | 5哲学する人間を科学する

目の前で動く仲間の人間の動きは、私たちが予測したとおりになるのです。目の前の、あるいは想像する他人が(仲間が、というほうがよい)物質を扱う動きが自分の予測どおりになると感じられるとき、私たちは、その物質の完全な存在感を感じられるようになります。そうする結果、人間仲間の誰もが共通に感じていると自分が感じられる周りの世界、人間どうしが共感することで共有する世界、つまり客観的な物質世界、がしっかりとした存在感をもって感じられてくるわけです。

それが人間の脳内に作られる物質世界の模型です。人間は、その物質世界の模型の中に、自分の身体の模型を作ります。この自分という模型は、幼児が物心つきはじめる頃、頼りにしている他人の姿をお手本にして作ります。子供が最初にお手本にする人間は、たとえばママとか、お兄ちゃんでしょう。その他人(たとえばママ)の動き方をコピーした人物像を取り込んで、今度は他人の目に映るだろうと感じられる自分の身体の模型として使います。そのコピーした人物像を、自分と思って、その動き方と他人からの見え方を想像していくわけですね。

そうしようと思ってするのではなく、子供は、自然にそうしてしまうようになっていきます。小学生くらいに成長した後は、覚醒しているときは、それをいつも感じることができます。これが意識された自分の模型です。もともとの自分の模型は、特定の家族などある人間のコピーなのですが、それはすぐ忘れて、幼稚園くらいから、完全に他人とは区別された自分という人物のイメージに作り上げられていきます。

こうして、この世界と自分というものが、(拙稿の見解では、神様によって、というよりも)他人(人間仲間)の運動(動作や視線)によって作られてくるわけです。

拝読ブログ:口にだしてみよう

拝読ブログ:自分をつくるための読書術 勢古浩爾(ちくま新書)

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他人予測用シミュレータを建設

2007年05月13日 | 5哲学する人間を科学する

Hatena43 人間が、集団行動用の自分の運動回路を使って他人の運動を理解している証拠はいろいろあります。電話をしながらテレビを無音にしてサッカーを見ていると、どうも相手を怒らせてします。「ちょっと! 聞いているの?」と叱られてしまいます。一つの運動回路を共用して、別世界にいる相手と真剣に会話するのと同時に目の前のテレビの中のサッカー選手の蹴る方向をきちんと予測するのは無理なのです。

予測した他人の動きは、自分がそこにある物質を扱うときの自分の身体の運動と同じように感じられます。私がその人であったら、そうするだろうな、と思えるように他人は動きます。それで私は、その人の心が理解できる、と思えるわけです。逆に、誰か他の人間が私だったらそうするだろうな、と思えることを私はするわけです。私は他人の中にいて、他人は私の中にいる、といえます。私が他人に乗り移る、ともいえるし、他人が私に乗り移る、ともいえる。拙稿の用語では、これを憑依といいます。これができなければ、人間は集団行動も共同生活もできません。言語も使えません。人間の生活はすべて、(拙稿の見解では)物質を扱う仲間の運動形成過程を脳内で感じ取り、憑依によって自分の運動として感じるところから成り立っています。

拝読ブログ:写真を撮ると言うことについて

拝読ブログ:見られる側の人間。

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ニューラルネットワーク型運動シミュレータ

2007年05月12日 | 5哲学する人間を科学する

ロボット工学の観点から見ても、人間のこの能力はすばらしいものです。ロボットでは、このような能力は、なかなか実現できません。カメラとマイクで得た情報だけから、カメラの前で動いている人間がこれからどう動くか、予測できるようなコンピュータプログラムは、どう設計したらよいでしょうか? 多分、そのコンピュータプログラムは、人間の運動形成機構のシミュレータを内部に持つ必要があります。これを組み込んでいない現状のロボットは、人間のように見える動作はできないわけです。確かに、こういう機構は、「Aの感覚が入力された場合、Bの運動を出力する」というノイマン型のコンピュータプログラムでは設計しにくい。ニューラルネットワーク型コンピュータが使いやすそうです。自分の身体とか他人の身体とか認識する以前に、筋肉を動かす運動出力と目など感覚器に映る感覚入力の変化は全部そのままニューラルネットワークに入力してしまう。それで学習が進み、うまく適応できていくわけです。

人間も、他人の運動を予測できるということは、自分の脳の中に、たぶんニューラルネットワーク型の、運動シミュレータを持っているのでしょう。進化の過程で人間はこういうシミュレータを獲得したのでしょう。進化のためとはいえ、脳の中に大きなシミュレータをいくつも新しく建設するのは大変だったでしょうね。

たぶん、進化の過程で、忙しい生存競争の最中に、そんな脳の大増築をする余裕はなかったと思われます。むしろ、おそらく人類は、一つしかない古い群行動用の脳内機構を、自分のための運動形成と仲間の運動を感知するためのシミュレータと、二つの目的に共用に使って、他人の運動を自動的に予測計算する方法を取ったに違いありません。そうすれば、狭い脳内に、他人予測用に新しいシミュレータを建設する必要はなくなります。

拝読ブログ:思考と志向と嗜好、あるいは地球村

拝読ブログ:布を引っ張ったところシミュレータ

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他人の内面を感じる

2007年05月11日 | 5哲学する人間を科学する

原始時代の人間は、現代人よりもずっと、感情を共有する能力が高かったのではないでしょうか? 言語が未発達のころのほうが、表情や視線、動作を通じて、完璧に近い相互理解が可能だったかもしれません。

人間は、(テレパシー能力は持たなくても)目や耳の感覚からの間接的な情報だけで、他人が感じている世界をかなりはっきりと感じることができます。他人の身体の動きを見たり音声を聞いたりすると、人間の脳は、自分が感じるときと同じ神経回路が自動的に活動するようにできています。そのとき、他人の感覚を自分の感じている世界に重ねることができます。これは、テレパシーのような神秘的なものとは関係ありません。他人の身体とその運動を、ふつうに目で見て、耳で聞くだけで、人間の脳は、他人の内面の運動と感覚を感じるようにできているのです。

これは、まったく見かけの動きだけに対する反応です。他人の動きの外面の見かけだけを見ているのに、人間の脳は、その人の内面の動きと感覚を感じたと感じるようにできているわけです。むしろ、自分の身体の動きを目で見たり、体性感覚でそれと感じたりするよりもさきに、他人の身体の動きを目で見て、その内面の感覚や感情を感じるのです。そういう脳の仕掛けによって、人間は、他人が周りの世界をどう感じているかが分かるような気がするのです。他人の動きを見て、その人がそこにある物質をどうしようとしているのか、予測できます。(拙稿の見解によれば)この仕組みが、その物質の存在感を作り出すのです。

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欲望の仕組み

2007年05月10日 | 5哲学する人間を科学する

Hatena42_1 赤ちゃんが物心ついていくとき、毎日のように感じ取る感覚は、家族など周りの人間が繰り返す同じような動き、同じような発声であり、同時に自分の身体がいつのまにか無意識的に動いたときに戻ってくる規則的な視覚、聴覚、触覚(体性感覚)などの変化でしょう。それらを繰り返し感じることで運動・感覚の規則性を(無意識的に)学習し、また繰り返し身体を動かすことにより運動形成の癖がついてくるのです。それら運動の規則性は仲間(家族など)の運動(表情や動作、言葉など)の規則性から導かれるものです。それが赤ちゃんの脳に、仲間(家族など)の運動に共鳴する追従運動を形成する神経機構を作っていきます。赤ちゃんが成長して幼児になると、その運動共鳴による運動の実行を意識的に捉えて言葉で表現できるようになり、「自分がそれをしたいと考えて動いた」と思うようになるわけです。

欲望といわれるもの、つまり自分がその動きをしたい、という感情はどこから来るのでしょうか? 脳のこの仕組みは興味深い。詳しく調べる必要がありそうです。しかしそれは、今論じているテーマからかなり離れてしまいそうなので、ここで深入りすることはさけます。後で詳しく論じましょう。ここでは代わりに、拙稿の見解を次のように、簡単に要約しておきましょう。

要するに、人間は(他の群棲哺乳動物と同じように)仲間の動きを感じると、それに自動的に共鳴して脳内に運動指令信号が形成され、仲間の運動を追従します。脳の運動回路がそのような運動指令信号を形成すると、人間はそれを感情回路で感じます。その信号を受けた感情回路は、まず、自分が仲間の動きを追っていきたくなった、と感じます。同時に仲間の感情を自分のものとして感じるわけです。それをしたいという仲間集団の感情を感じると、それを、自分がそれをしたいという感情としても感じるようになるのです。特に、仲間が今目の前にいるわけではなくて記憶や想像の中の仲間の動きを無意識的に感じている場合、仲間の存在は意識できないので、自分一人がそれをしたいと感じている、と人間は思うわけですね。

拝読ブログ: スプーン

拝読ブログ:ロールケーキ

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