目の前で動く仲間の人間の動きは、私たちが予測したとおりになるのです。目の前の、あるいは想像する他人が(仲間が、というほうがよい)物質を扱う動きが自分の予測どおりになると感じられるとき、私たちは、その物質の完全な存在感を感じられるようになります。そうする結果、人間仲間の誰もが共通に感じていると自分が感じられる周りの世界、人間どうしが共感することで共有する世界、つまり客観的な物質世界、がしっかりとした存在感をもって感じられてくるわけです。
それが人間の脳内に作られる物質世界の模型です。人間は、その物質世界の模型の中に、自分の身体の模型を作ります。この自分という模型は、幼児が物心つきはじめる頃、頼りにしている他人の姿をお手本にして作ります。子供が最初にお手本にする人間は、たとえばママとか、お兄ちゃんでしょう。その他人(たとえばママ)の動き方をコピーした人物像を取り込んで、今度は他人の目に映るだろうと感じられる自分の身体の模型として使います。そのコピーした人物像を、自分と思って、その動き方と他人からの見え方を想像していくわけですね。
そうしようと思ってするのではなく、子供は、自然にそうしてしまうようになっていきます。小学生くらいに成長した後は、覚醒しているときは、それをいつも感じることができます。これが意識された自分の模型です。もともとの自分の模型は、特定の家族などある人間のコピーなのですが、それはすぐ忘れて、幼稚園くらいから、完全に他人とは区別された自分という人物のイメージに作り上げられていきます。
こうして、この世界と自分というものが、(拙稿の見解では、神様によって、というよりも)他人(人間仲間)の運動(動作や視線)によって作られてくるわけです。
拝読ブログ:自分をつくるための読書術 勢古浩爾(ちくま新書)