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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

一番大事なところが・・・

2007年05月19日 | 5哲学する人間を科学する

Hatena45 しかし、ある日、たとえば子供時代が終わりそうになった小学五年生の夏休みに、あるいはプロ野球の選手になれないことが分かってしまった高校二年のころに、あるいは三十代になって出世があやしくなってきて起業もできそうにないし映画監督にも小説家にもとてもなれないと思ったときに、あるいは六十代で定年退職して毎朝の通勤が必要なくなったときに、次のようなことに気づいてしまうことがあります。

この世界について、人生について、人々が言っていることは大体分かるけれども、何か一番大事なところが信じられない。何か、誰も分かっていないような気がする。

たとえば、私は何なのだろうか、何ができるのだろうか、これからどうなるのだろうか、私はいつか幸せになれるのかしら? 全然、保証はない、という気がする。不幸なまま、だれにも理解されないまま、惨めに死んでしまったらどうなるの? それじゃあ悔しくて死にたくない。それでも死んじゃうのかしら? 

そういうことは誰も教えてくれません。新聞にも本にも書いてありません。誰も知らないようです。それとも、ふつう教えてくれないことになっているのかもしれません。人に聞いてはいけないような気がします。だいたい、目に見えるものではありません。神様にしか見えないもののような気もします。こういうところで考え込んでしまう人がいます。この世は分からない。どうしようもなく分からない、と思ってしまう。神秘感に落ち込んでしまうのです。

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問題なし-no problem

2007年05月18日 | 5哲学する人間を科学する

人間はふつう、信じやすいですから、周りの仲間が信じているものを信じます。毎日、同じように繰り返して起こることは信じる。朝になれば日がまた昇ることを信じる。偉そうな人が言うことを信じます。科学者のいうことを信じる。皆が信じる人のことを信じる。テレビが言っていたり、新聞に書いてあったりすることは、ほとんど信じるのです。

そうして人間は、明日もだいたい今日と同じと思い、安心して暮らすのです。ふつう、そう感じるように人間はできています。周りの人々がそう信じているらしいと分かるから、そう信じるのです。そうしていれば、大体うまく行くことを知っているのです。そういうように脳を進化させた人類の身体が、そういうしかたで生存競争を生き抜いて繁栄し、私たちの身体となったのですから。

人間はふつう、将来のことを深刻には悩みません。大体、自分が知っていることだけで世界の動きは予想できると思っています。分からなければ、仲間の真似をすれば用は済みます。それで実際、毎日は問題なくやっていけます。それでよいのです。細かいことは分らないことも多いですが、そんなことは放っておけばよろしい。悩み込んでしまう必要などないのです。

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科学の足元を掘り下げる

2007年05月17日 | 5哲学する人間を科学する

周りの物質が、どのように動き変化するか、予測用の模型を作ります。自分の周りの他の人間がどう動くか、その人がそこの物質をどうしようとしているのか、目に見えない他人の気持ちがどう変化するか、自分の気持ちがどう変化するか、自分の収入が、地位が、財産が、経済が、社会が、どう変化するか予測します。明日の運勢はどうなるか、神様はどう助けてくれるのか、などなども予測したいわけです。

それで、人間は予測用模型を作ります。そういうものを自動的に作るように人間の脳はできているのでしょう。二回続けてバスに乗り遅れると、次回も乗り遅れるという予測用模型を作ってしまいます。それで、早めにバス停に行くわけでしょう。

私たちは、そういう模型で作った予想を信じて次の行動をするようにできているようです。人間はみな脳の仕組みが同じなので人間が作る予想用模型はみな同じようなものになります。それを人間どうしお互いに眺めあうことで、集団的に、人間は現実世界の共通的な模型を共有していることになる、と(拙稿の見解では)考えられます。

私たちの目に見えて手で触れるこの現実世界を、実在する最も確かなものだとするところから、科学は成り立っています。確かにこの物質世界は、誰が見ても触っても同じように感じられるようです。それはこの世界が実在しているということだ、と言ってしまえば、確かにそれだけの当たり前のことです。しかし、さらにその、だれの目にも見えて手で触れる、ということの足元を掘り下げて考えてみれば、この現実世界は同じ仕組みの脳を持つ人間集団の運動神経と感覚神経の共鳴によって共有された脳内の共通模型だとも言えるわけですね。そう言うほうが、むしろ、科学的でしょう。人間各人が持つその共有された共通模型を実在する物質世界だと感じて、互いの脳内のその存在感をお互いにいつも確かめ合うことで、人間は相互理解し、世界を実在させて科学を作り、毎日の社会生活をしているのですね。

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現実の中の脳内の現実の中の脳内の・・・

2007年05月16日 | 5哲学する人間を科学する

その現実世界の中にある、たくさんの人間の身体のうちのひとつを自分と思うわけです。空間がひろがっていく感覚の中心に人体がひとつあって、その身体の動きが五感を変化させ、快不快を発生し、感情を誘発するように感じられる。そういう人体が自分だと思うのです。

実は、赤ちゃんだった頃の学習経験で、私たちはこの自分の身体を自分の運動と感覚が世界へ通じる出入り口とみなすと運動がうまくいくことを覚えたのです。この身体に、自分の内部感覚を貼り付けてみると分かりやすい。さらに視覚、聴覚、触覚も、この身体についている目や耳や皮膚が感じているとみなすと、分かりやすい。この身体を自分が運転している、と感じるような気持ちになってみる。そうすると周りの物質とのやり取りで具合が良い。何度も繰り返してみたそういう経験から、赤ちゃんの脳内に、自分の身体という模型が作られるのです。

自分の身体はいつも動いて何かをしようとする。それが動く力を予想し、動いた結果を予想する。その結果で世界がどう変化するかを予想し、その結果で自分の身体がどう変化するかを予想する。つねに先のことを予想する。そういうふうに人間の脳は作られているようです。

そのために、身の回りの世界の変化の法則を知りたがるのでしょう。無意識的に自動的にそうするように人間の脳は作られています。そうしようとしてそうするのではなくて、いつのまにかそうしています。そういう機構が、生まれつき人間の脳の中にあるようです。

そのために脳内に現実世界の模型を作ります。脳の中にいろいろな現象の模型を作って、現実を予想します。模型を動かすシミュレーションで将来を予測します。いくつかの模型をつなぎ合わせ、組み合わせて、上位の模型を作ります。だんだん大きな世界の模型を作っていきます。それらは全部、無意識に自動的に行われています。

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時系列信号→物質/空間

2007年05月15日 | 5哲学する人間を科学する

子供が運動を計画するとき、たとえば、遊園地の滑り台を駆け上るとき、こういう場面でお兄ちゃんならこういう動きをするだろうな、とお兄ちゃんの運動を思いだしたり、想像したりして自分の運動シミュレータ回路の上に再現し、これからの運動計画を作ります。これは仲間につられて運動する集団動物の習性と同じ神経活動です。つまり自分の脳の中にある(お兄ちゃんの姿から作った)自分の身体の模型が仮想運動としてまず動いて、それにつられて実際の運動が起こります。

実際の運動に先立って自分の模型が脳の運動シミュレータ回路の中で動いています(拙稿では、これを仮想運動という)。それがこの筋肉にこういう力を出させて、手足が、顔が、目玉が、こう動いたら他人の目にこう映るだろう、あるいは、そこにある物質にはこういう影響を与えることができるだろう、ということが動く前に、無意識に、分かります。それを自分の意思あるいは欲望、と感じます。それからは自動的に実際の筋肉が動く。それで自分が動いたことを意識する。意識的な運動はこうして起こると考えられます(拙稿のこの仮説は、神経科学では検証されていません)。

人間が、主観的に、自分の目の前にある現実の物質世界だと思っている空間と物質は、客観的な物質現象としては、脳神経回路の(時系列的な)神経活動ですね。それは、脳の運動シミュレーション回路において、そこに視覚、聴覚、触覚などの感覚信号が投射され仲間の運動と連動する集団的な仮想運動の脳内シミュレーションに対応しています。その運動シミュレーションが自分の脳内で動いていることを感じて、人間は自分の目の前に物質があり、空間が広がっている、と感じるわけです。ただ単に、視覚や聴覚の感覚神経からの信号を脳の視覚、聴覚部位で受信するだけで、物質世界の存在を感じるわけではありません。テレビの画像データも0と1の羅列からなる時系列の信号ですが、それを見る人の脳内で物質や空間と感じられるわけですね。それと同じです。

拝読ブログ:メジャーリーグの数理科学〈上〉

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