しかし、ある日、たとえば子供時代が終わりそうになった小学五年生の夏休みに、あるいはプロ野球の選手になれないことが分かってしまった高校二年のころに、あるいは三十代になって出世があやしくなってきて起業もできそうにないし映画監督にも小説家にもとてもなれないと思ったときに、あるいは六十代で定年退職して毎朝の通勤が必要なくなったときに、次のようなことに気づいてしまうことがあります。
この世界について、人生について、人々が言っていることは大体分かるけれども、何か一番大事なところが信じられない。何か、誰も分かっていないような気がする。
たとえば、私は何なのだろうか、何ができるのだろうか、これからどうなるのだろうか、私はいつか幸せになれるのかしら? 全然、保証はない、という気がする。不幸なまま、だれにも理解されないまま、惨めに死んでしまったらどうなるの? それじゃあ悔しくて死にたくない。それでも死んじゃうのかしら?
そういうことは誰も教えてくれません。新聞にも本にも書いてありません。誰も知らないようです。それとも、ふつう教えてくれないことになっているのかもしれません。人に聞いてはいけないような気がします。だいたい、目に見えるものではありません。神様にしか見えないもののような気もします。こういうところで考え込んでしまう人がいます。この世は分からない。どうしようもなく分からない、と思ってしまう。神秘感に落ち込んでしまうのです。
拝読ブログ:死んだらどうなるの?